「あほぬかせ!」
烈しい怒声が響いた。俊治の肩がぴくりと震え、見上げていた顔がゆっくりうなだれる。苦しげな表情が痛ましい。
「あのな、勘違いすな」
一転、やけに穏やかな口調で諭すように語りかける。
「わしはな、ただ適正な法律の手続を踏んどるだけなんや。お前とこの研一がこさえた借金、きちんと後片づけしたってやというとるだけや」
きちんとした背広姿だ。一見どこにでもいる普通のサラリーマンといった風情である。ただ口を開けば人の弱みに容赦なくナイフを突き立てるその術は、地方の農協で地元の知己に囲まれ暮らしてきた俊治には到底太刀打ちできない。
「そやかて、契約書のとおり先月完済しましたて事務所で天辰さんも言うてはったやないですか」
俊治の気弱な抗弁に、天辰はにやりとして口を開いた。
「そうや、親父さんよう頑張った」
慇懃に大きくうなずいて、俊治を褒める。
「そら息子のためや言うても、よう身銭切らん親も多いご時世や。そやのに、親父さん研一のために仕事辞めてやで、足りん分退職金でようやくまかなうなんて、そらできるこっちゃない。つらかったやろ」
にじり寄ると、肩を抱いて身体を揺する。
「なあ、長年勤めた農協や。勤め果たして夫婦二人で楽しゅう暮らすつもりやったやろ。それを研一の奴が不始末してしもて。なあ、親父さんはなんも悪ない。くやしかったやろ。なあ。人には言えんつらさや」
天辰の腕の中でぐったりとして、俊治は目にうっすら涙までにじませている。
「ようやった。よう頑張った。あれで、借金と利息は完済や。きれいさっぱり。よかったな。もう身内の恥を人に知られるんやないかとびくびくせんでええ。先祖にも顔向けできる。ほっとしたやろ。なあ」
俊治は泣き笑いのような表情でうなずいている。
「あとは損害金だけや」
はっとして目をむき、俊治は天辰の顔を見た。その肩を抱いたまま、天辰はゆっくり身体を前後に揺する。
「あとは損害金だけやな」
背筋を伸ばし、訴えるようにして
「聞いてへん。あれで全部やと」
「なめんな、おら!」
耳元でいきなり罵声が爆発した。
「つけあがりやがって! こんがきゃ! おら、誰が全部や言うた。ぬかすな!」
重なる怒鳴り声に、思わず顔をそむける。否や、胸倉をつかみ俊治の顔を引き寄せるとさらに罵声を浴びせる。
「誰が全部や言うた! 嘘ぬかすな! お前はろたんは借金と利息だけやないか。おら。ええ加減なことぬかすな、がきや、おら!」
顔をしかめ、胸倉つかんでいる天辰の手を哀願するように両手で握りしめている。
「わかったか! わかったか! 返事せえ!」
目を閉じ、うなずく俊治。
「言うとくが、こっちは弁護士先生おるんや。いつでも裁判したってもええんやぞ」
力なくかぶりを振る。
「人に知れてみい。もうお前は町の恥さらしや。親戚かて知ってみい。親戚中怒ってお前はもう身内ちゃう。みんなお前を怒って、二度と顔見せるな言うて、口も利かへん、もうここにはおれん。おれるかいな。身内の面汚しや。町の恥さらしや。一人残らず、みんなお前を恨むわ。一生、恨まれる。お前の顔なんか二度と見たない。町から出てけ! お前に言うのはそれだけや」
これ以上ないというほど背を丸め、俊治は死んだようにぐったりとしている。
「せやろ。そんななりたないやろ」
じっとしている俊治の耳元に口を寄せ、抑えた声でささやく。
「見つけたで、研一の嫁」
驚いて目をむく俊治に、にやりとして続ける。
「探したで、ほんま。隠したつもりやろが、なめんな。堅田のアパートにガキとおるやろ。べっぴんや。べっぴんさんや」
がたりと、閉じたふすまから音がした。
ふすまの向こう側で耳をそばだて座っていた俊治の妻が、思わずふすまに身体をもたれたのだ。
「嫁に言うてもええんや。お前あかなんだら、嫁にはろてもらうしかないやろ」
呆然と口を開け、俊治はただ顔を振っている。
「嫁にはちょっと遠いとこで働いてもらうわ。何年かかるやろ。帰ってこれるやろか」
隣の部屋で加寿江が口を手で押さえ、わなわなと震えている。
「嫁、『れい』言うやろ。不憫やな。もう、かわいいガキにも会えへん。つらいしのぎに泣いて暮らさなあかん。もう明るいとこ出られへん。明日でも、わし迎えに行こか。どんだけ泣いたかて暴れたかて無駄や。おしまいや。全部、研一のせいや。お前らのせいや。嫁を見殺しや。嫁を差し出して、自分らのうのうと老後の余生や」
そしていきなり、
「ええ!」
怒鳴り声を張り上げる天辰。
「どうするんや! おら、わかったか!」
俊治は泣きそうな顔だ。
天辰は革製のアタッシュケースを開き、透明なファイルを取り出すと、中から真新しい契約書を広げる。細かな字の一点を人差し指でトントンと叩きながら、天辰は声を張り読み上げた。
「指定された返済期限を越えた場合など、乙の作為不作為によって生じた損害について甲に別途請求権が発生する! 書いてあるんや! ここに!」
そう言って、素早く契約書をたたむ。
「来週までに三百容易せえ」
「あんた、そんな」
加寿江が暗がりの中で目をむき、呆然としている。そしてその目に、やがて憤怒の炎がめらめらと燃え出している。
「なあ。お前、ええ子ぶっててもあかんぞ。教えたろ。こういうときはな、思い切ったことを考えるんや。ええか。お前やったら、三百くらい簡単に引っ張ってこれるやろ。もうちょっとな、頭使って、根性見せるんや。頑張ってみい」
そう言って天辰は話を切り上げる様子だ。
無言のまま、じっと座っている俊治。
「忘れんな。あかなんだら、嫁さらうで」
そう言って天辰は腰を上げた。
狭い玄関土間に立って、天辰は先のとがった革靴に足をねじ込んでいる。そして無言で差し出す手に、俊治は慌てて靴ベラを渡す。
「用意できたらうちの会社に持って来い。必ずや」
どすの利いた声でそう言うと、一転して天辰は愛想のいい笑顔になった。
「ほな、これで失礼しますわ。おおきに」
甲高い声だ。天辰は頭を下げ、ドアから出て行った。
と、そのとき俊治の後ろから、突然加寿江が勢いよく現れるや、裸足のままドアを開けて飛び出した。
階段を一段だけ降りかけていた天辰が何事かと振り向くと、加寿江がいきなり両手で彼をどん!と突き飛ばした。あっと声を出す間もなく、天辰は飛ぶように突き落とされた。踊り場のセメント壁に頭から激突する鈍い音がした。ああ。天辰の呻き声がもれた。
ドアを開け、出てきた俊治は、踊り場で奇妙な態勢のまま横たわり、わずかにうごめいている天辰を見るや、玄関に取って返し、その手に茶色のステッキを握り再び現れた。
階段を駆け下りると、俊治は天辰の頭めがけ、ステッキを思い切り、振り下ろした。二度三度。方向が定まらず、天辰の顔に裂傷が幾重にもえぐられる。あああ。顔を揺すり、天辰が呻く。俊治はステッキを持ち換え先端部を握ると、狙いすまして重量のある金属の取っ手を天辰の頭に思い切り振り下ろした。鈍い音がする。もう一度、狙いすまして渾身の力でステッキを頭蓋に振り下ろす。目を向いた俊治は鬼の形相だ。さらにもう一度、さらにもう一度、そしてさらにもう一度。俊治のステッキは天辰の割れた頭蓋を打ち砕いた。血にまみれ、天辰はもう動かなかった。
まもなく夜が明ける。明かりを消した四畳半の寝室で、俊治と加寿江はそれぞれ背を向け合って、二時間余も身じろぎせずただ黙ってじっと座ったままであった。わずかに時折、互いの深い吐息を聞いた。それでも、言葉を交わすことはない。
先に口を開いたのは、加寿江だった。
「もう、疲れました」
疲弊しきった声だ。もうあがく力も失った虚無の声だ。その声は一人言のように、沈黙の静寂に掻き消えて行った。
しばらく間をおいて、俊治が短く応えた。
「そやな」
暗がりの中に、生気を失った不気味な加寿江の顔が浮かんだ。こうして人は自死してゆくのだろうかと、彼女はふと思っていた。自分には無縁なことと、まるで人ごとのように感じていたかつての自分が忌々しかった。
「そやな」
もう一度、俊治は言った。離れた街灯の明かりの下で、死体を棟の物置に隠しはしたが、踊り場の血痕はそのままだ。引きずった際にきっと他にも鮮血の痕跡が残っている。時間の問題だ。警察に捕まる。実直と言えば聞こえはよいが、ただひたすら降りかかる面倒ごとを回避することに労を費やしてきた人生だ。たとえそれが善きことであっても、何より大事を怖れ、巧妙に木立をすり抜けるようにやってきた結果が、この事態であった。
「もう、これで終わりや」
そう言って口をつぐんだ。そして、言葉を継ぐ。
「終わりにしよ」
暗がりの中で、加寿江は心で同意した。
「そうや、もう楽になれる」
俊治の言葉が妙に弾んでいる。加寿江は顔を上げ、俊治の方を向いた。
「そや、終わりにするんや。それがええんや」
まるで救いの光を見出したかのように、俊治は絶望に自ら身を投じる誘惑にとり憑かれていた。襲い来る巨大で凶暴なこの事態を、それは一瞬で解決し霧消させる無限の魔力を秘めるものと見えたのだ。死による救い。それは加寿江の虚無にも共鳴した。
「お父さん」
にじり寄った加寿江の口にしたその一言は、もう長く目を合わすことさえなかった乾ききった初老の夫婦がひしと寄り添う寂しく湿った響きを宿していた。
「琵琶湖大橋から落ちたら、もう上がって来おへんのやて」
「ほんまか」
「この前、ニュースで言うてた。深いとこに沈んで、もう見つけられへんて」
「ほうか」
もう道は定まった。ただその細い小径をたどって行けばいいのだ。終わりに向かう二人の短い旅が始まった。
加寿江は腰を上げると、流し台に立ち、残っていた食器を洗い始めた。ぽかんとして俊治はその様子をあぐらかいたまま眺めている。手早く洗い終えると加寿江は食器の水をふき取り、てきぱきと棚へと収める。そして彼女は座りこんでいる俊治の前を横切り、窓を開けると乾いた洗濯物を取り込んだ。腰を下ろしそのひとつひとつを大事そうにたたむ様子を見て、ようやく俊治は、それが加寿江の旅支度なのだと悟った。せめて片づけて、家を後にしたいのだ。俊治にひしと最期へ向かう実感が心を浸した。
通帳と印鑑をポケットに入れ、俊治は集めた現金を財布に押し込んだ。頑なにキャッシュカードを作らずに来たことを今さらに後悔した。今どき、カードのない家などありますか。そう言って不便を愚痴る加寿江の疲れた顔を、不愉快な気分で無視してきた。厚地の作業ズボンの大きなポケットがふくらんだ。
時間が気になる。もう新聞配達が来る頃だ。明るくなる前なら、血痕とは気づかれないだろうが、日が昇ればもうそれは明らかに分かるはずだ。
「おい」
俊治は加寿江を急かした。加寿江は少し部屋を見渡してから仏壇の前に座り、合掌して、おもむろに骨壺を包む濃紺の風呂敷を解いた。
俊治はその様子をじっと見ている。ゆっくりと蓋を開け、もう一度合掌すると菜箸を差し入れて、手元に広げたハンカチに、取り出した白い骨片を置いた。
「研ちゃん」
そう小さく声かけ、鼻をすすりながら、二度三度、縁柄の白いハンカチに骨を落とす。そして箸を置くとハンカチを軽く包んだ。
しんとした静寂が満ちる。
「父さん」
加寿江は胸元におし抱くように白いハンカチを両手で包み、視線を落としたまま口を開いた。
「最後に、うみのこ見たい」
俊治が加寿江を見つめた。
「うみのこ見てから、死にたい」
そう言って、顔を上げると俊治の方を見た。
「ああ、『うみのこ』な。そうしよ。『うみのこ』見て、それから死の」
うみのことは琵琶湖上で児童がキャンプするための巨大な学習船だ。二人には忘れられない思い出の船だ。
俊治は深く同意するようにそう言うと、ほつれた白髪が頬にかかる加寿江の顔を見た。俊治を見つめる潤みを帯びた加寿江の目から、思わず俊治は視線をはずした。
二人が玄関ドアを閉めたとき、辺りはもう白々と明けかけていた。
線路の音が響く。街道沿いの山あいを列車は抜ける。林の木陰からもれる朝の木漏れ日が後方へと飛び去り、やがて田畑が広がった。まばらだった乗客も一駅ごとに増えて行く。乗車して一時間も立つ頃には、四人掛けのボックス席が並ぶ古い車両に、通勤通学の乗客が通路に立ち並んだ。
その中で垢ぬけない普段着の俊治と加寿江はいかにも場違いに見えた。背が低く小太りで似通った体型の二人は、まるで田舎から家出してきた老兄妹といった風情だ。俊治は大きな口を開けて、窓に肘つき寝ほうけている。気が張り、奇妙な興奮で目が冴えていた加寿江も、さすがにここへきて知らず睡魔に襲われていた。
支線の終点は、都市をつなぐ沿線の草津駅だ。駅前には高層ビルが立ち並び、町には活力がみなぎっている。
県境近い東部の山あいに暮らしてきた二人には、ホームに降り立ったときから人々の勢いに圧倒され、気後れして戸惑いに呑まれている。寄せる人と進もうとする人が濁流のように混ざり合う中、すでに二人とも互いの姿を見失っていた。
加寿江はあたりを見まわし懸命に俊治の姿を探しながら、流されるままようやく改札を出た。そして目の前に、半ば呆然として洒落たカフェの前に突っ立っている俊治を見つけた。不安が一気に解け、安心するのが自分で分かった。お父さんと声をかけようとしたそのとき、加寿江はためらいに言葉を呑み込んだ。あまりに俊治がみじめに小さく見えたのだ。大きな町に気おされ、どうしていいのかわからないまま、心細くただ加寿江を探している。違う。探しているのではない。加寿江が探し出してくれるのを待っているのだ。哀れに思うと同時に、不快な苛立ちを小さく感じた。手を上げ声をかける代わりに、加寿江はことさらにゆっくりと俊治の前へ歩み出た。
ほんの一瞬破顔すると見せて、俊治はすぐに真顔に戻り、黙って歩き出した。加寿江があとをついてくると信じているのだ。加寿江は無性に侘しくなった。
俊治は立ち食いそばの食券自販機の前に立った。その傍らに加寿江も従うように立つ。俊治は熱心な様子で四角いボタンに表示された品名を選んでいる。加寿江はどれも食べる気がしない。こんなときに、こんなところで。加寿江は俊治の気が知れないと思った。でもそれは今までに何十何百何千回と繰り返し思ってきたこと。そうしてこれまでそうしてきたように自分を抑え、俊治を立てる。
「お父さん、何にしますか」
「うん」
言葉では答えず、俊治は千円札を差し入れて「きつねそば」のボタンを押した。
「私も」
俊治はもう一度、同じボタンを押した。
高いカウンターにサラリーマンが立ち並ぶ狭い店内を覗いただけで、加寿江は尻込んだ。かまわず店内の奥へと進む俊治に、仕方なく加寿江は従った。
琵琶湖岸の矢橋帰帆港へ向かうバスの車内は閑散としていた。
先に乗り込んだ俊治が前から三列目の座席に座ると、加寿江は少しためらってからそのまま通路を進み後方の座席に腰を下ろした。家を出てから、二人は一度も会話らしい会話をしていない。それはいつものことであるが、二人の間に何かひりひりとした緊張がみなぎっているのを二人は感じていた。互いに相手に苛立っていたからだ。ただその理由は互いにわかってはいない。
窓外に広がる田は、稲穂が重く首をたれ、一面黄金色にどこまでも連なっている。もう町の喧騒からは遥かに遠い。のどかすぎる風情だ。
俊治は、昨夜の出来事がまるで何かの間違いで、現実ではなかったかのようにも感じていた。おれが人を殺すなど、そんなことはありえない。しかし、その手に感触がよみがえる。ステッキを振るい、天辰の硬い頭蓋にそれを叩きつける鈍い衝撃。はじめ頼りなかった手ごたえが、腕を振るごとに力みなぎり、強い力でそれが頭蓋にめり込み、かち割る感触。俊治は目を閉じ、うなだれた。
俊治の頭が重く前に垂れるのを、加寿江は後方の席から眺めていた。そして、目を窓の外に向けた。もう、こうしてバスに身体を揺られるのも、陽光を浴びて輝く一面の稲穂をみるのも、今日が最後、生きているのは、もう今日が最後なのだ。軽く目を閉じて、重苦しく忍び寄る暗い心情を懸命に斥けていた。
湖に突き出た広大な埋立地である烏丸半島にバスが侵入すると、もう乗ってくる者はなく、乗客はただ二人のみであった。実験場の森を過ぎると、琵琶湖に出た。広大である。二人の居住は相当な内陸部で琵琶湖から遥かに遠い。離れて座った二人ともが、伸びあがるように背を伸ばし、広がる湖面に目を奪われていた。
停留所を降りると、もう目の前が湖上学習船「うみのこ」の停泊地、矢橋帰帆港である。港とは言っても、小さなバス停と変わらない。うみのこ船体から降ろされる階段デッキを接岸させる小さな埠頭が芝生の先に突き出ているだけだ。
うみのこの姿はどこにもなかった。二人は芝生に降りて、錠に閉ざされた鉄の柵に手を置いた。
「うみのこ、いいひんな」
俊治の声に耳を貸さず、加寿江は回想に浸っていた。
接岸した「うみのこ」の階段デッキに研一が姿を見せた。大きなリュックを背負い、同級生らとはしゃぎ合い、何か大声で笑っている。楽しそうだ。芝生にひしめいて待っている保護者たちの中で、加寿江は手を振って、声を上げた。
「お帰り! 研ちゃん!」
加寿江の声はその耳に届かず、研一が加寿江に気づいたのは、ようやく加寿江が人をかき分け研一の正面に立ったときであった。
「あのな、ええ子おれへんかったわ」
研一の第一声に、思わず加寿江は抱きしめそうになった。
小学五年生だった研一の笑顔がよみがえり、加寿江はたまらなくなった。二二年前と同じ場所に立ち、こらえきらず加寿江の目にみるみる涙が溢れた。その涙は頬をつたい、加寿江はしゃがみこむと顔を覆って泣きはじめた。
俊治は柵沿いに少し歩き、高く伸びたねこじゃらしの群生から一本を抜き取り、所在なく払うように振っている。
ようやく泣き終えた加寿江は、鼻をかむと突然俊治に向かって叫ぶように言った。
「お父さん! ちゃんと名前で呼んで!」
唐突な言葉に目を丸くして、俊治は面食らった。
「あたし、お父さんの何なん。もう、かなん!」
俊治はようやく、妻を「おい」としか呼ばないことを責められているのだと理解ができた。しかし、どう答えたらよいのか、口を開けてはつぐみ、狼狽した。
「もういい!」
突然の剣幕を前に、俊治は何をどうしたらよいのか、困惑するばかりであった。こんなふうに加寿江が俊治に怒りをぶつけるのはもう何年もなかったからだ。
先を歩く加寿江の後ろを、俊治はついて歩く。しょげている。俊治はまだ、加寿江の要求にどう答えたらいいのか、答えを出せない。どうしても、「加寿江」とは口が裂けても言えそうになかった。悪かった。怒るのも無理はない。おれが悪い。そうは思っても、今さら、その名を口にするなど恥ずかしくて想像もできない。どうしたらいいか。どうしたら、機嫌を直してくれる。こんなときに。こんなときだから、なんとかしなければ。俊治の困惑は迷路に迷い込んだように終わりが見えず途方に暮れた。
かなりの時間を歩き、加寿江が足を止めた。駅へ帰るバス停に着いたのだ。
バスの時刻表を横から覗く俊治に、加寿江が口を開いた。
「一時間に一本しかないのに、ちょうどあと五分やわ。運がいい」
運がいいなど悪い冗談だ。それでも、にこりとして俊治を見るその顔を見て、俊治は安心した。
「あのな、どう呼んだらいい。お前かて、お父さん言うやろ。母さんではあかんか」
あれからずっとそのこと考えていたのか。加寿江は少し驚いたが、顔には出さず
「あかん」
そう言って、気のなさそうに首を振った。普段なら十分だ。それで許したくなっただろう。でも、加寿江はもっと、と思った。私に俊治さんと呼ばせるほどに、もっと苦しんで、と加寿江は思った。もう、最期だからだ。これでもう終わりだからだ。
先に乗り込んだ加寿江が前の席に座ると、俊治はその後ろの席に座った。車内はがらんとしている。
うみのこは見られなかった。あとはもう命を捨てるだけだ。加寿江はじわじわと無性に恐ろしくなってきた。階段から突き落とした手に残る重く硬い触感。そして俊治が滅茶苦茶に繰り下ろしたステッキによって人の顔とは思えぬほどに醜く崩れた天辰の顔。身震いがして、呼吸が苦しくなる。思わず、振り向いて俊治に無言で助けを求めた。
俊治はすばやく席を移動し、加寿江の隣に腰を下ろした。俊治も青い顔をしている。同様にとてつもない不安と恐怖に襲われていたのだ。
探るようにして、加寿江は俊治の手を握った。二人おのずから、指を絡めて、強く手を握り合った。二人はかつてともに被害者であり、今や殺人の共犯者であり、逃亡者として分かつことのできない運命を共にしているのだ。つないだ手の体温と、ぴったりと押し合うように接している腕と身体が、寂しい安心を二人の心に忍ばせる。
「お父さん、さっきはごめん」
かぶりを振って、俊治は口にした。
「おれが悪かった。母さん」
加寿江は胸がいっぱいになった。
「いいの」
「加寿江」
突然俊治ははっきりと、そう口にした。
加寿江は握った手に力を込めた。応えて、俊治も強く力を入れて握り返した。
「痛い」
俊治はうなずいたが、力は込めたままだ。加寿江は涙が込み上げた。
「お父さん、今日はおいしい御飯が食べたい」
「ああ、そうしよ。金はある」
「服も買いたい。きれいな服で明日」
「ああ」
俊治は、何回も大きくうなずいた。
そのとき、パトカーのサイレンの音が二人の耳に届いた。瞬時に身体を硬くする二人。まもなくその音は遠ざかったが、二人は強く身体を寄せ合い、前かがみとなって顔を隠した。
後方の席では、学生がちょうどスマホのニュースを動画で見ているところだった。
「昨夜、金融会社に勤務する天辰康夫さん三四歳が土山市の市営住宅の物置で死亡しているのが発見されました。警察は、何者かに頭部を殴打され殺害されたあと遺棄された殺人事件とみて、捜査しています」
「おい、滋賀で殺人やで」
学生は隣の席の友人に言ったが、他の動画を見ているその友人はイヤフォンをしていたため、声に気づかなかった。
「天辰さんは昨夜、市営住宅に住む五十代の夫婦のもとを訪れており、夫婦が事情を知っているものとみてその行方を捜しています」
二人は紳士服店の大きな看板を見て、バスを下車した。すでに警察は二人が草津駅から烏丸半島方面にバスで向かったことを探知していた。先ほどのサイレンは、矢橋帰帆港に向かうパトカーのものだった。
購入したスーツは着慣れず、肩口や首回りを窮屈に感じた。それでも俊治は革靴まで新調し、着飾った。加寿江はスカートに両の太ももを絞めつけられているようで歩きづらく、だらしなく脂肪のついた身体が恥ずかしくてならなかった。しかし、そのうちに下半身の締めつけがむしろ心地よく思われてきた。パンプスの硬いヒールが床を鳴らすと、まるで都会の女性のようで、晴れがましくどこか誇らしげな気さえした。
二人は別人のようだ。加寿江は美容院に行きたがったし、俊治自身禿げ上がったぼさぼさの頭では特別なひと通りの衣装も台無しと鏡を見て思った。しかし、二人にそんな時間はない。駅前ホテルの高層階にあるレストラン街に二人はいた。フレンチレストランの前である。
「やっぱり、さっきの天ぷら屋にしようか」
フランス料理と決めていたのに、いざとなると店のハイソなたたずまいに俊治は怖気づいた。
「かまへん、行こ」
そう言って加寿江が先に店内に進んだ。
「予約はしてないですけど、大丈夫ですか」
頭をきれいに撫でつけた、埃一つない背広に身を包んだ支配人風の男は、丁重に頭を下げた。後ろから俊治が前に出た。
「二人です」
ファミリーレストランでまずそう答えるように、先手を打って告げた。禁煙席で、という言葉は咄嗟に呑み込んだ。
「かしこまりました」
男は表情を変えずに二人を先導した。
席に着いたときには、もう後悔していた。明らかに場違いだ。それでも、加寿江は今にも消え入りそうな気分をどうにか盛り上げようと、ことさらに口を開いた。
「なんか、テレビみたいやね」
俊治はまだ強張っている。
「お父さん、背広着てもサラリーマンには見えへん。やっぱり農協のポスター貼りの方が似合ってる」
語るうちに、何か気分が落ち着き、そして小さな興奮を感じ始めた。
差し出されたメニューから、加寿江が指をさして手慣れた風に注文する。給仕が去ると、俊治が抑えた声で尋ねた。
「メニューわかったんか」
首を振って加寿江が言う。
「どうせ何頼んでも一緒や。そないにおいしないに決まってる。恰好つけて、芸能人みたいに言うてみただけや。気持ちいい」
そう言って目を大きく開いてまばたきした。たいした女やな、年をとってもかわいい顔しとる、と俊治は思った。おれにはこの女しかおらん、ともひそかに思っていた。加寿江のことをこんなふうに思うなど、ずっとなかった。何十年ぶりか。そして、すべてを終えるときが迫っていることを思い出す。全部、思っていることを、口にしなければならない気がした。
「加寿江は、おれなんかにはもったいなかった。ずっとそう思ってた」
驚いて、そして素直に、加寿江はうれしいと思った。
「なんやの。なんかもう死んだみたいな言い方や」
「そんなんと違う。感謝しとう」
加寿江は泣きたくなった。
「お互いさまや」
「加寿江」
「やめて」
やめないで。
「ありがとう」
「そんなんいらん」
胸がいっぱいだった。
「すまんかった」
「何が」
「いろいろ」
加寿江は小さく笑い、横を向いて、にじんだ涙をごまかした。
「遅いわ。今さらなんやの」
「ほやな」
「遅いわ」
そう口にして、俊治より自分の方が、ずっと素直じゃない、と加寿江は思った。そして、この気持ちをずっと味わっていたいと切ない喜びにしみじみと浸っていた。
店を出ると、すぐに二人の前をパトカーが通り過ぎた。思わず加寿江はぎょっとして硬直し、その場に立ち尽くした。慌てて俊治は加寿江の手を引くと、アーケード街に身を隠した。
そして目についた看板の前に立つと、俊治はそのビルに入り、振り向いて加寿江に来いと合図した。
長い髪を後ろでくくった受付の若い男から、俊治は番号プレートを受け取った。ネットカフェだ。俊治は同じ農協の杉原君からその利用法を詳しく聞いたことがあった。そのとき、最近は男女二人用のスペースがあり、ラブホテル代わりに利用するものもあるらしいと聞き、俊治は思わずへえ!と仰天したことがあったのだ。
新調したスーツをハンガーにかけたあとで、盗まれては大変と靴も中に引き上げた。
二人田舎臭い下着姿でそこに座りこむと、さすがに狭い。外から見えると聞いていたが、完全防音個室と看板を上げているとおり、外部とはドアで遮断されている。それでも二人には物置の隅に閉じ込められた気分で、息が詰まりそうだった。
「今の若い人はこんなとこでも、落ち着けるんやろか」
耐えられないといった顔で加寿江が言う。
「わしらが贅沢なんや」
俊治のつぶやきに、加寿江は不満を悔いた。
「今のわしらにはこれで十分や」
「そうやね、もうこれで最後やもんね」
コンビニで買ったサンドウィッチや稲荷ずしを広げた。
黙って、二人向かい合って頬張る。
「明日は、早う出て、バスで行こ」
俊治の言葉に、加寿江が下を向いて小さく笑った。
「どうした」
「なんや、二人でピクニックでも行くみたいや」
口から手を下ろし、俊治は黙った。力なく加寿江は笑みを浮かべ、あぐらをかいた俊治の腿に落ちたご飯粒をつまみとって口に入れた。
「お父さん、今日は楽しかった」
俊治は加寿江の哀しげな目を見つめた。
「何年ぶり、何十年ぶりやろ。二人で出かけて、二人でご飯食べて」
加寿江の目に涙が浮かんでいる。
「たくさん話もしたし、お父さんに服選んでもうた。嬉しかった。お父さん、ありがと」
俊治は鼻から大きく息を吐き、唇を結んでいる。そして口をわずかに動かしては、首を垂れた。俊治がすまないと詫びているのだと加寿江は分かった。加寿江は、二回、三回とかぶりを振った。
小柄な二人は、並んで足を伸ばした。こんなふうに一緒に寝るのさえ、もう思い出せないくらい久しぶりだった。最後の夜にふさわしいと、二人は噛み締めていた。
「お父さん、腕貸して」
「おう」
俊治が左腕を加寿江の頭の下にくぐらせた。加寿江は腕にしがみつくように身体を横に俊治の方を向く。
俊治は上を向いたまま、口を開いた。
「うみのこ、見れへんかったな」
「うん」
「うみのこ見ときたかったな」
「お父さん、加寿江言うて」
俊治は横を向き、間近に迫っている加寿江と見つめ合った。
「加寿江」
「もう五十とっくに過ぎてるのに、みっともな」
加寿江は泣き笑いのような顔で照れた。そしてまた、真顔に戻って請うた。
「もっと、言うて」
「加寿江」
俊治は横を向いて加寿江を抱きしめた。
「俊治さん」
加寿江の閉じた目じりから、涙がにじんでいる。
「俊治さん、して」
俊治の身体が硬直して止まった。
「して、俊治さん」
加寿江は俊治に顔を寄せた、
「できひん? 言うて、なんでもするから」
俊治は目を大きく開いて加寿江を見つめながら、強くうなずいた。
「おれがする。加寿江、してほしいこと言え」
「俊治さん、もう最期や。俊治さん」
「加寿江」
二人はかすれた声でその名を呼び合い、互いの乾いた身体をむさぼった。ずっと忘れていたむき出しのぎこちない戯れに、二人は飽かず相手に向かった。誰にも知られず二人の夜が、小さな箱の中で狂おしいまでに燃えて乱れている。そうして最後のときが哀しく暮れて行った。
琵琶湖大橋の東詰に二人が立ったのは、まだ六時を少しまわったばかりの頃であった。遠目には車道しか見えないが、広い幅の歩道が橋の頂点に向かってまっすぐに続いている。
俊治は紺地の背広に赤いネクタイを締めている。硬い革靴がかかとを削り、靴づれが痛い。それでも、コンクリートの歩道を音を立てて歩くと息を呑む重々しい峻厳な儀式に向かっている気がした。
もう手ぶらである。駅のゴミ箱にすべてを捨ててきた。財布も通帳も印鑑も、もうすべて要らない。もう二度と、使うことはないのだ。ポケットにはただ一枚の白いハンカチが入っているだけであった。
横を歩く加寿江も同じだ。もう何も持っていない。ベージュ色のスーツに身に着けているのは、研一の骨をはさんだハンカチだけである。
やがて歩道はせりあがるような坂道となる。脇を覗かずとも、その高さがわかる。風が強い。車両が脇を通り抜けると、わずかに足元が揺れる気がする。
前方で歩道は空に向かうように途切れている。あのあたりがちょうど橋の真ん中付近、頂点の展望スペースである。驚くほどの大変な高さだ。歩きながら加寿江が俊治の袖をつかむと、俊治の手が加寿江の手を握りしめた。言葉はない。頂上が近づく。指を絡め、手を固く握りなおした。頂上だ。
二人、足を止めた。
しばらくそのままじっとしていたが、加寿江が俊治の方を向いた。口が小さく開きかかったが、言葉はない。強張った奇妙な表情のまま、加寿江は小さくうなずいて、俊治の手をほどいた。胸がふさぎ、俊治は息が荒くなり、動悸がした。口を開けて、手すりに寄る加寿江の背中を見ている。
加寿江は表情もなく正面に広がる遥かな琵琶湖を見ながら、両手を高い手すりに置いた。
そして手すりに寄り、身体を預けた。俊治はそのすぐ後ろに立ち、肩で息をしている。
ゆっくりと加寿江は目を閉じ、手すりから身を乗り出した。鉄棒に上るように地面を跳ね上げるつもりだ。下を向いていた目を静かに開いた。そのとき、加寿江は思わず驚愕の声を上げた。目を大きく見開き、口を開けたまま橋の下を凝視している。
どうした。俊治が歩み寄ろうとすると、加寿江が振り返った。今にも泣き出しそうな顔をしている。俊治を見て、小さく首を振った。
俊治が勢いよく手すりに寄り、加寿江に並び橋の下を覗き込んだ。
そこには、白い巨大な船体がゆっくりとあらわれていた。うみのこだ。
船首から甲板デッキが、ちょうど真下に徐々に姿をあらわす。これでは飛び込めない。俊治も大きく目を見張り、ただその事態に愕然としていた。
息を呑み、絶句して眼下を眺めている俊治と加寿江は、忘れがたい過去の記憶をうみのこに呼び起こされていた。
大津市民会館のステージ中央に、胸に赤いバラの記章をつけた研一が歩み出る。
スタンドマイクの前に立ち、一礼するとまっすぐに前に両手を突き出し、研一は広げた原稿用紙を読み始めた。失敗はせぬかと本人以上に緊張し、客席の加寿江は舞台を正視できずうつむいた。
研一が朗読する大きな声が会場に響き、思わず顔を上げる加寿江。研一の堂々とした姿にうっとりしている。
ステージの後方には「第一八回滋賀県小学生作文コンクール」と書かれた大きな吊り看板が掲げられている。研一は県知事賞の一人に選ばれたのだ。
「僕がうみのこフローティングスクールでいちばん楽しみにしていたのは、他校の友達ができることです。というのは、僕のお父さんとお母さんは今から三十年前にうみのこで出会ったからです。うみのこがなかったら、両親は結婚していませんから、僕も生まれてこなかったと思います。だから僕は、うみのこのおかげで生まれてきたのです」
晴れがましさと恥ずかしさで恍惚となり、加寿江は頬を紅潮させている。
「僕ももしかしたら、うみのこで将来のお嫁さんと出会えるかもしれないとドキドキしていましたが、女子の友達はできませんでした。いつか、僕も両親のように一生一緒に暮らす運命の人と出会いたいと思います」
読み上げた研一は、会場を見渡して加寿江を見つけると手を振った。加寿江は腰を浮かして、思い切り手を振って応えた
加寿江は軽く握った左手をスーツの胸に当てて、その上から右手で包むように押さえた。スーツの内ポケットには、今やはかなく頼りない骨のかけらになってしまった研一がいた。
「研ちゃん」
加寿江は振り絞るように、呼びかけた。
「今給黎(いまきいれ)て、珍しい名前ですね」
農協新人歓迎の宴席で、俊治は隣に座る同期の女性からいきなり話しかけられた。社会人となってまだ三日目である。座は主役を無視して、もはや勝手に騒いでいるとは言え、俊治はまだがちがちに緊張し固まっていた。内気な俊治は自分から雑談を話しかけてきた彼女に内心驚き、その顔を見た。
「足、しびれてしもた」
彼女は顔をしかめ身体を傾けると、小声で俊治に言った。
「足くずしてもいいやろ」
俊治がそう言うと、大丈夫なん?と尋ね返した。
「おれは剣道やっとったから」
彼女は、感心するようにうなずいてから、足を崩した。そうして、ほっとしたように笑顔を見せた。俊治もつられ、緊張が解けた。
「よくおれの名前、読めたな。普通読めへん」
「読み方知っててん。小さいとき、同じ名前の人と文通してたから」
「おれとこ両親とも九州やから、向こうじゃよくある名前や。たくさんおる」
「こっちには全然おらんね。今給黎て、私も文通してたその人しか知らん」
「おれも会うたことないな」
元来俊治は人見知りである。こんなにもリラックスして会話を弾ませることなど、これまでなかった。それも相手は苦手だった女子だ。俊治は不思議だった。
「その文通してた相手も九州の人違うか」
「滋賀の人や。八日市の」
「おれも前は八日市に住んでた。太郎坊の近くにいてたんや」
「あ、知ってる。岩のお宮さんやろ。その人書いてた」
「そうか」
「その人とは話したことはないねん。あんたも行ったやろ『うみのこ』」
「ああ、五年生の時な」
「あれ最後に他校の子と住所交換てあったやろ。あれで何回か文通してん」
「おれもしたわ。なつかしな」
俊治は笑顔でファンタオレンジをぐいと呑んだ。そのとき、ふっと気になった。
「あんた、名前は?」
「新田加寿江」
少し考えてから、俊治が口を開いた。
「それ、おれや」
「え?」
「あんたと文通してたん、おれや」
「ええ?!」
思わず上げた加寿江の声に、まわりの職員たちが一斉に振り返った。
「いやあ、新人同士盛り上がってるやないか」
大人たちが二人の周りに寄ってきて、会話はそれで途切れた。それでも、俊治の胸は明るく日が差し、笑顔になった。やがてビールを注がれ、その夜は恒例のようにしこたま飲まされた。
研一は、手すりに手をついたまま、隣にしゃがむ加寿江を見た。そして歯を食いしばりこらえたが、固く閉じたまぶたから、涙がぼたぼたと溢れた。
加寿江が泣き顔で見上げると、研一もしゃがみこみ、二人手を取り合った。やがて堰切ったように、二人は声を上げて泣いた。
近くに車が止まり、人が駆け寄ってきた。さらにまた一台、車が止まり人が降りてきた。
背をさすられ、肩を抱かれても、二人の嗚咽はずっと止むことはなかった。
× × ×
午前八時半、十一月の朝はひんやりとして、もう冬の気配が漂っている。それでも一面の青空は清々しく晴れ渡っている。
高い監視塔の下に連なる高い塀の端に、分厚い鉄の門扉が見える。扉を開けて、青い制服の係官と一緒に小柄な老人が姿を見せた。俊治だ。手には古い旅行鞄を下げ、汚れ一つない真新しい安物の運動靴が目立つ。中門を出たら、もうそこは娑婆とつながる塀の外である。
刑務所の表門で、俊治は係官に頭を下げて挨拶をした。緊張で強張り、歩くのもぎこちなく感じる。後ろから「今給黎出ました。出迎えなし」と無線で報告する係官の声が聞こえた。俊治は、ゆっくりと歩みを進めた。
久しぶりの町である。刑務所の教官から教わったとおり、まっすぐに通りを行くとバスの停留所が見えた。
ベンチに腰を下ろすと、俊治はカバンを開き、中ポケットから白い封筒を取り出した。そしてまた、その手紙を広げ読み始めた。
「この手紙が着く頃はもう、舎房から、出所前の寮に移っているのではないかと思います。
私の方が先に女子刑務所を仮出所したことは、よかったと思っています。こうしてお父さんをお帰りなさいと迎えることができるからです。
お父さん、でも一人で本当に寂しかった。どんな理由があっても、人一人を殺めてしまったという事実は決して消し去ることができません。親なのに、大切な子を守ってやることも、できませんでした。そのことを一人思うと、今でも気が変になってしまいそうです。
それに、お父さんが何を思っているのか、私にはそれがわからくて、とても怖くて不安です。面会で話をするのはいつも私だけで、あなたはいつも怖い顔をしてうつむくだけで、結局一言も口を開いてくれませんでした。
私たちが犯した罪も過ちも二人で背負って、私はあなたと一緒に生きて行きたい。研一もそれをいちばん願っているはずです。こんな酷い罪を犯さないと、心通わすこともできなくなってたこと、本当に私たちは馬鹿で最低の夫婦です。
それでも、これからあなたと一緒に暮して行けることが、私には夢にようにありがたく、幸せです。一度あのとき死んだ私たちですから、お父さん、私は残った人生、あなたの手をもう離しません。お父さんも離さないでください。
今給黎加寿江」
駅を降り、ホームの階段を俊治は登った。改札口を抜けると立ち止まり、それからゆっくりと正面に向かって歩き出した。
「おかえりなさい」
加寿江が強張った顔で俊治の手から鞄を受け取ろうとしたが、俊治は無表情のまま鞄を地面に下ろし、そしてゆっくり加寿江の両肩をつかむと、静かに抱きすくめた。その横を学生たちがおっという顔をしながら通り過ぎた。爺さんやるなあ、と囃したてる声が聞こえて、加寿江は目を閉じ、俊治の背中に手をまわした。
了