弁護士事務所のころ
そのころ私は弁護士事務所の事務員だった。今も界隈の雰囲気はさほど変わっていないのではないか。裁判所の近隣はいたるところ弁護士事務所の看板だらけであった。「京都市中京区丸太町麩屋町通り下ル」これが事務所のあたりの住所だ。私は9年間在籍した家庭裁判所を退職し、先輩調査官の紹介で弁護士事務所にバイト事務員として入ったのだ。まだ多分に家裁調査官の気分を引きずっていたと思う。いや、それよりも労働組合員としての気分の方が根深く私を支配していたように思う。それほど当時の私はどっぷりと労働組合そして市民運動の活動に首まで浸かっていた。
はじめに勤務した事務所の弁護士は、広い旧宅を借り一人で悠々と民事事件をこなしていた。事件に入れ込みその社会的意義にこだわるといったタイプではない。弁護士会からの要請や事務をいかにも疎ましく思っている様子を隠そうとしない。面倒なのだ。卒業した地元私大の上品な学生バイトに囲まれ、淡々と執務に向かっていた。しかし当時京都で大いに新聞を賑わしていた有名人を依頼人に持っており、決して業務は悠長にこなせるものではなかったはずだ。それを余裕綽々に見せていたのは、むきになっていきり立つのをことさらみっともないと卑しむ京都人特有の言わばダンディズムのようなものだったと思う。それにしても僕の人生にはまったく無縁な、目の飛び出るほど高額の現金包み(束ではない)を大きな紙袋で無造作に銀行から事務所まで一人歩いて運んだときは、あとになって大いに冷や汗かいた。あれは何だったんだろう。
しかし勤務してたった4ヶ月で私は大怪我を負ってしまう。診断は左足指の付け根の複雑粉砕骨折。入院となった。自転車でこけたのだと人には説明したが、本当は違う。病院でも原因をそう話したが、そんな状況でこんな怪我にはならないと医師は言下に否定した。しかし「まあ、それぞれ事情はあるのでしょう」と言ったきりそれ以上私に問いただすことはしなかった。きっと私が頑なで拒絶的な気配を存分に発散させていたのだろう。入院はひと月で、松葉杖ついて退院した。入院中に弁護士事務所は退職となっていたから、とうとう私は無職となってしまった。そのあたりあまり情が深いわけでないところも京都人らしい先生であった。今から数年前、近くに寄ったところもはや事務所は跡形もなかった。ご健在だろうか。
ともかく職を失い当惑していたところ、向かいの弁護士事務所から声がかかった。K弁護士事務所だ。私は松葉杖で面談を受け、その2週間後ギブスが外れた翌日から弁護士会に登録された事務員として勤務についた。そのために左足に打ち込まれた5センチの釘3本を取り除く手術を受けていない。また入院となるのであればこの話は無しにと採用が帳消しになるのを恐れたのだ。それから30年、そのときの釘はまだ私の足の中にある。数年前足を捻挫しレントゲンを撮ったところ、そこにはきれいに3本の釘がその角度もはっきりとわかる形で写っていた。
K弁護士は前年の京都弁護士会会長で、日弁連の副会長まで務めていた。肩書は立派だが、古くからいる中年の事務員と二人だけで切り盛りしている貧乏所帯であった。扱う事件が主に刑事事件であったからだ。よく事務所に顔を出す地元新聞司法記者は「人権派弁護士」などと述べていたが、刑事専門弁護士の実情はつまり暴力団ヤクザを顧客としているということだ。暴対法施行ですっかり時代は変わったが、当時はまだ暴力団が市民社会に根深く広範に巣くっていた。先生、先生としゃがれただみ声で礼を言うときはいいのだが、おら!と怒鳴り声で事務所にやってくることもあれば、電話で怒声罵声を浴びせられるのは日常であった。橋下が首長になりキャスターの辛坊やドキュメント作家の門田あたりが口角泡を飛ばして社会を堂々と煽るようになった頃から、善と悪について社会が長い歴史をかけて積み上げた知恵を大衆的に瓦解させてしまったというのが私の理解だ。だから刑事弁護という司法作用の意義さえ、その社会的理解が危うくなっている印象を受ける。今やドラマでは、正義の警察対悪徳弁護士という構図の方が「受ける」のではないだろうか。空恐ろしい。確かにその姿勢自体が「人権派」と記者には映ったのだと理解できる。保釈を勝ち取ることにかけては図抜けていると記者が教えてくれた。
ところでその記者は私も懇意にしていた。知り合ったのはまだ家裁勤務時代だ。当時家裁労組の委員長をしていた関係で取材を受けるなどしていた。そして私が退職金の一部を使って小説を自費出版した際には大きく写真入りで記事にしてくれた。夕刊に記事掲載されると翌日だけで50件を超える書籍注文の電話が鳴るほどであった。当時私が編集していた社会運動系のミニコミ誌を定期購読し、折々その感想など聞かせてくれた。それから数年後も何度か出会っている。もう退職し一線を退いており、同紙の若い記者には何段階も上の元上司という記憶らしい。しかし知り合った最初の記者が彼であったから、新聞記者という私の印象を形成したのは彼ということになる。その印象は決して悪くない。
K弁護士の事務所に勤務したのは3年に満たない。翌々年末にK弁護士が死去したからだ。
当時はガン患者に対し「告知」をするという慣例はなかった。患者に問われても医師や周囲はその病はガンであると決して知らせはしなかった。当時は現在よりずっと快復率が低かったという事情もあると思う。弁護士は胃潰瘍であると告げられ全摘する。黒澤明の映画「生きる」そのままに、弁護士は自分の病に疑念を抱いていた。時折ぶちまけるように、俺はガンなんじゃないか、お前はどう思ってる?と荒れて問いただされることもあった。弁護士と家族ぐるみ親しかったT弁護士から、私たち事務員二人はその病名を知らされていた。弁護士は日に日に身体が弱っていった。ずいぶんと痩せた。それでも書面を作り、法廷に出た。鬼気迫る気配であった。しかしもはや姿勢よく座っていることすらできない。法廷での姿があまりにだらしないと、事情を知らない裁判官からたしなめられるほどであった。最後に事務所にやってきて法廷に出たのは、亡くなるちょうど二週間前である。そうして事務所はその屋台骨を失う。
あとは残務整理である。そして私たち事務員は先のT弁護士から、これまでご苦労様と封筒を渡された。解雇である。いや、事務所自体が実体をなくしたのであるから自動的な退職手続に過ぎず、それは好意による謝金であったかもしれない。いずれにせよ私は失職し、無職となった。封筒に入っていたのは給与半月分にもずっと満たないわずかな額であった。成り行きが確かに予測できていたのであれば、先に転職でもしておけばよかったのにとも言われたが、できるものではない。弁護士自身がどれほど死を覚悟していたかもわからない。
ただ弁護士はひそかに分厚い大学ノートに自分の過去を書き記していた。相当な量だ。私は弁護士に言われ、それを日課のようにコピーしていた。読んではならない気がして、ちらと見るだけで文字をしっかり目で追うことはしなかったが、若いころの出来事が乱れた字で書き綴られていた。それは数冊に及んだ。そのノートの存在を知っているのは私だけであった。事務所の蔵書類など一切を処分することになり、私は弁護士の夫人にそのノートのことを告げた。しかし結局そのノートを探し出すことはできなかった。どうしても見つからないと夫人は心底残念そうであったが、それは誰かに見られることを望まない弁護士自身が自分に向けてつづっていたものであったのかもしれない。間際に自身で廃棄したとしか思われない。
そうして私は無職となった。慌てて他の弁護士事務所の求人に応募したが、すでに年齢が30代後半であったためことごとく書類段階で拒まれる。おまけに弁護士の死からひと月も経っていないのに、今度は父が亡くなった。若い時分すでに母を亡くしており、これで両親ともがこの世から消え去った。父は私の人生にとってぬぐいさることができない深い葛藤の相手であり、和解してのちもなお良くも悪くも濃密な縁を感じていた。だからその死は腹の底に大きな空洞を生んだ。なにしろ弁護士の死をかたわらで体験した直後である。死は堪える。私は実感した。死はそれだけで人に深いところでダメージを与えるものである。
しかしこの体験は大きい。家裁を退職し、私なりにそれからの人生を懸命に探し出し作り上げる心持ではいた。しかし実態はこのようにもろく、力のないものに過ぎなかった。弁護士事務所事務員として勤務するかたわらでさまざまに活動してはいたが、今まで私は何をしていたのか、何もしてこなかったと今さらながら悔やみ、自責せずにはおれなかった。
もう二度とクビになるのは嫌だ。そのためにはなんとしても自分自身で稼げるようになりたい。そう思っていた矢先、当時編集にかかわっていた地域誌「京都TOMORROW」の関係者から或る編集プロダクションを紹介される。面談した際に「3年間で独り立ちできる実力をつけてあげる」と編集長に言われ、私は翌日から新米編集記者として勤務し始めた。ようやく司法界隈からまったくの別世界に抜け出すことになった。もう私の職業上の経歴経験はなんの役にも立たない。ゼロからである。歳をくっている分むしろマイナスだ。そこからが私の第二のスタート。大きくここから物語を体験することになる。
先日、私は25年ぶりに懐かしい人と会っていた。その人のことをどう表すればいいのか、戸惑う。友人とはいいがたい。親しくつきあい、私には気安い存在ではあったが、立場が違う。上司あるいは先輩と言ってもいいが会社ではない。実は上官と言いたいくらいなのだが、もちろん軍隊ではない。要は彼は組織の幹部で私は平のメンバーだった。そのグループで活動していたのが弁護士事務所時代だ。編集の世界に飛び込む際、私は組織を離れている。堅気に戻ったのである。
実は弁護士事務所時代を思い起こすきっかけとなったのが、彼との再会だ。投稿同人誌の隅に短く彼のことを書いたが、その邂逅を言葉ではうまく言い表せない。こうした感慨に襲われるときは、もうフィクションの物語に結ぶしかないのである。
昨年は大学時代の友人と20数年ぶりに交流が復活した。卒業後も長くミニコミ誌の編集などともにしていたが、以後はほとんど親しく言葉を交わすこともなかった。そして高校時代の友人とも再会した。30歳になるとき一度だけ出会ってはいたが、ほぼ卒業以来45年ぶりだ。私は別れることの下手な人間だ。気持ちよくにこやかに手を振って別れるなどほとんど体験したことがない。おおかたばつの悪い、苦々しい別ればかりであった。だから、再会を夢想はしてもあり得ぬこととどこか自分であきらめていた。しかし、時間というものの圧倒的な力に感嘆する。こうして再会できている。それも心地よいものとして。だからまた思うのである。捨てたもんじゃない。しぶとく生きてみるものである。また改めて、さらに始まるものであるからだ。捨てたもんじゃない。