「白痴」 ~ 光闇を描くドストエフスキー

 読み終えた。
 はじめに岩波文庫「白痴」上巻を開いたのは、いよいよコロナ禍非常事態が宣言され、学校やほとんどの店舗、会社がシャッターを下ろし、まもなく町中からティッシュやマスクが消える頃だ。ひと頃はほぼ毎日、私は「白痴」を読みながら川沿いの遊歩道を歩いた。たいがいは地元のショッピングモールを目当てに片道の三十分、そして近くの湖岸公園ベンチでまた十分二十分、それから三十分の帰り道。その間中、ずっとドストエフスキーワールドに浸りっきりだ。存分に味わい、酩酊せられるようにどっぷりとはまっていた。
 歩きながら本を読む、などずっとしていなかった。思い出したのは鹿児島の高校生だった頃のことだ。空腹をこらえ、昼飯のパン代250円で文庫を一冊買い求める。当時、出版社の目録片手に、心にぐっとくる小説を求め、散々読み漁っていた。書店を出るや、もう頁を開き読み始める。歩きながらだ。丘の上の自宅までは徒歩で一時間ほどの距離だ。ひたすらに読みながら歩く。わざと遠回りしたり、通った道を逆戻りしたり、また公園のベンチに腰掛けたりしながら、脇目も振らず貪るようにひたすら本の文字を追う。だから薄い文庫なら、帰宅するまでに読み切ったことも何度かあった。同じである。ただ当時は本を手に開き、うつむき加減で歩いていた記憶がある。つまずいたり看板にぶつかることもしばしばだった。きっと往来の運転者にとっては迷惑千万な歩行者だったろうが、当時の私は一向に無頓着だった。もう50年近くも昔の話だ。今はもう、危なっかしくて、下を向き本を読みながら歩くなどできない。この歳であるから、勢いよくつまづけば簡単に骨折する自信がある。今はこうだ。顔は正面を向き、開いた文庫を片手で目の前にかざすように持つ。そうすれば本を読みつつ、なんとなく周囲も視界に入ってくる。開いている店舗の周辺に人影はあっても、歩道にはまったくと言っていいほど人の姿はなかった。車道を走る車もほとんどない。むしろ危険と咎められる以上に、相当な奇態だったかもしれない。本で顔を隠すようにして歩くけったいな爺がいると、もしや界隈をざわつかせていたかもしれない。しかし私にとってはもう掛け値なしの、それは至福の時間だったのだ。
 
 ところで「白痴」を読むのは、実はこれが初めてだった。憧れの作家を尋ねられたら迷うことなく「ドストエフスキー」と答えるくせに、実は「罪と罰」と「カラマゾフの兄弟」しか長編を読んでいなかった。その二作なら高校以来何度となく読み返したが、他の長編「白痴」「悪霊」「未成年」は手に取っていなかった。おそらくその背表紙の分厚さにためらったのだ。中途で読み飽き本を閉じるなら、はなから開かない方がましだ。そう思っていたし、既読した二作でもうドストエフスキー物語を十分満喫し知った気になっていたのかもしれない。
 今回読み始めたきっかけはコロナ禍による巣篭もりということもあったし、うまい具合にこれも神保町で岩波文庫上下二冊を700円で購入していた。満を持してというよりも、今さらかよ、と呆れ気味に言われそうだが、このタイミングのおかげで長年気になっていた「白痴」を開いたのだ。
 
 読み始めるや、あっという間に引き込まれた。引き込まれたなんてものではない。作家の魔術にかかり、物語世界にすっかり精神まるごと呑み込まれた。
 なんと言えばいいのだろう。あらゆる点で度肝を抜かれるのだ。まず独自の比喩表現の凄まじさ。それが比類ない人間と心理の深層に対する明晰な洞察あった上でのものなのだ。意地悪く冷徹ではぐらかすように皮肉っぽく、そしてまた限りのない愛おしみをその修辞で描き出す。なんという人間通ぶり。ドストエフスキーでしか味わえない無敵の技巧だ。
 ところでこの文庫は米川正夫訳だ。読みづらく、だからこそドスト節がぴったりだと感じるのだ。「罪と罰」も「カラマゾフの兄弟」も、最初に読んだのが米川訳だった。だからずっと読みやすい江川訳や亀山訳を物足りなく感ずるのだ。中にはこんな日本語あるか、と言いたくなる箇所もあるし、第二編に入ると一部唐突にムイシュキンが自分のことを「俺」なんて言い出すのも、翻訳に完璧を期したせいなのかどうか疑いたくもなる。しかし舗装されていない砂利道をがたごと歩くような文章だからこそドストエフスキーだと感じるのだ。それにしてもこの痛快な言葉の操りぐあい、その縦横さははなんと言おう。それは全編を通じてだ。最後の一行まで、鮮烈なその言葉に魅惑せられ、幻惑させられるのだ。
 
 <ほとんど猜疑と、神経過微に陥るほど自尊心と虚栄心の強い彼、このふた月のあいだずっと自分を一段と高尚で上品に見せかけてくれるような足場をせめて一点なりともと、さがしまわっていた彼、しかしこの道にかけて自分はほんの新参者で、とても最後まで持ちこたえられそうもないと感じて、とうとうやけ半分に、もともと専制君主だった家庭内で、できるだけ横暴にふるまってやろうと決心したものの、それでもむごたらしいほど高飛車に出て、この期に及んでまで彼をまごつかしてばかりいるナスターシャの目の前で決行する気になれなかった彼、ナスターシャの評言をかりれば、『かんしゃくもちの物貰い』であり、しかもこの評言を聞きこんで以来、今にこの仕返しをせずにはおかぬぞと、ありとあらゆるものにかけて言ったが、またそれと同時に万事をうまくまるめてしまって、いっさいの対立を妥協させようなどと、ときどき子供のような空想をたくましゅうする彼ーーこういう彼が、今またさらにこの苦杯を飲みほさねばならなくなった。しかも、それがよりによってこんなときなのである!>
 
 そうした複雑かつあまりに過剰な個性際立つ人格像が、まるで祭礼のようにそれぞれ予測不能に立ち振る舞い、次から次に事態を展開して行く。皆が異様にテンション高く、大声上げて哄笑し、走り出し、ぶるぶる震え、罵倒し、泣き出し、つかみかかり、挙句の果てに卒倒して倒れる。読む側はあまりの迫真に息を呑み、それがただの小説であることさえ忘れてしまうのである。油紙に包まれた束が暖炉に放り込まれる場面、長い一人語りが終わった後でやにわにつかみ上げ撃鉄を引いた場面、その呆気にとられる顛末含め、どうしてただの文章でーーーおまけにその舞台は数百年前の遠いロシアだーーーここまで読む者を虜にして翻弄できるのか。まさに神業である。そして鍵はやはり台詞だ。その人物にしか口にしえないつぶやきや放言が、あらぬところから不意に飛来する矢のように読者めがけその顔を掠めるのである。
 
 <すっかり言ってください! せめて一生に一度だけでもうそをつかないでね!>
 
 <あなただけはエゴイズムのためでなく、目分自身のためでなく、あなたの愛してらっしゃる人のために、愛することがおできになります。こう思っている矢先、あなたがわたくし風情のために、羞恥や憤怒をお感じになると知って、どんなにか痛ましかったでしょう! ここにあなたの破滅が潜んでいます、つまり、あなたはわたくしと同列になるのでございますもの>
 
 <くりかえして申しますが、あんな才能のない、気短な、そして欲の深いうじ虫にとっては、犯罪がなによりいちばん普通の避難所ですからね>
 
 <ははは! ぼくもそうだろうと思った! きっとそんなふうの言葉が出るだろうと思ってた! しかし、あなたがたは・・・その・・・その・・・口のうまい人たちですね! さよなら、さよなら!>
 
 たしかに舞台劇のようである。長大な物語が、それぞれの台詞によって進行するのだ。だからいきおい台詞部分以外はト書きのようになってしまっている部分も多い。しかしここが味噌なのだ。
 実は読み始めて、まずそこが目を引いた。
 そもそも登場人物の一人が物語を語る一人称小説以外、物語の語り手がどう現れるかということは小説の出来にとって大変重要だ。登場人物ではないから、語り手である自身を作家は「描く」わけではない。しかし、その物語の語り手を読者は自覚せずとも受け取っている。語り手は透明人間である。人格を感じさせてはならない。つまり登場人物やその振る舞いを露骨にアセスメントして、悪人だ、可哀想だ、許せないなどと評価を含んだ表現すれば、語り手自身の価値観や人格像が現れ、それが新たなる影の登場人物となってしまうのだ。つまり、これは自明に共有された普遍的な評価反応だと作家が信じ切っている価値観こそが、実は決して普遍的でない偏りを有した価値観にすぎず、その自覚の欠如を露骨に明かしてしまうのである。「さすがにこういう人は誰でも悪いと感じ怒りを覚えるだろう」とか「よっぽど変わった人でない限りこういう人に憧れるだろう」などと無自覚に心でつぶやいているならば、それは作家とは言えないだろう。心打つ美談をセンセーショナルに売り出すジャーナリスト作家など、この類である。もちろんそれは商業的動機とすでに自身で分かちがたく合体している場合が多いのであるが。作家は時代によって、その地域民族国家によってまったく価値観や「当たり前」が異なっていることを知っている。つまり或る価値観、愛国だとか家族愛だとか自己献身であるとか、善悪観や死生観を含め、それを人間一般にはじめから共有された普遍価値であるとか、あるいは過去の誤った歴史を超えて進歩到達した最上の価値観であると妄信する限り、人間そのもの、世界そのものに肉薄する物語など描けないのである。だから現在の当たり前、常識は「ここで一時流行している」ものに過ぎない、という根底的前提を宿した上でのものなのだ。何百万人が涙した、とか、日本中がいいねの嵐、なんて、いかに流行の価値観をつかんだかという証明でしかない。もちろん作家は現在の常識や当たり前とされる価値観を否定しているわけではない。それを単純に絶対と信じ思い込んではいないということだ。その透徹した眼差しが作家の根底的力量となるのだ。その社会で広く共有されている価値観を描きながら、その遥かな深淵に肉薄して究極の普遍や絶対に分け入った作家こそが、地域にも時代にも抹消せられない超越的な作品を産み出すのである。
 「白痴」物語の語り手は、先に書いたように読者を興奮のるつぼに巻き込みながら、まったく姿を見せない。その存在の消し方が凄いのだ。読む者は「語り手」の存在をすっかり忘れてしまう。つまり語り手が人格としての匂いも気配も決して感じさせない。読み手からすっかり「見えない」のである。かと思うと、唐突にまったく真逆に「書き手」が登場して読者に滔々と経緯や意味合いを語り出すこともある。これは幕間の口上のようでもある。このあたりもドストエフスキーならではとも言える。
 そして語り手のとぼけ振りについても指摘したい。物語の語り手はそもそも「顛末」を知っている。この事態がどう展開するか、この事件が何を引き起こすのか、その関係性はどう変化するのか、実は作家である語り手は知っている。だからその先を隠して物語るのだが、どうしても幾分か気配がにじみ出てしまうものだ。なぜなら、すでに「知っている」からだ。知っている語り手は「知らないふり」をすることはできても、本当に「知らない」読者との温度差は否応ない。いったいこの先物語はどうなるのだ?! と読者と一体になって書き手が語るためには、実際に顛末を「知らないまま」書き進める作風の作家や作品には勝てないものだ。そしてこの「白痴」で語り手は、まったくその先の顛末を一ミリも感じさせず淡々と叙述するのである。こうなるとは思っても見なかった、そんなことが起こるなんて! と読者が展開に驚愕し目を見張るのは単なる「設定の意外性」では決してない。書き手自身が決して口を割らず沈黙して不安を煽っているのだ。驚異的だ。それは「知らないふり」のレベルではない。もちろんそれは書き手自身でなく、読み手がそのように感ずるように語っているということだ。これは語り手自身が、読み手と同様にまさに戦慄し驚愕し不安におののき歓喜の絶頂に忘我放心しているということかもしれない。ドストエフスキーはすさまじく速筆であったという。ペンを持ちひとり原稿に向かい書きなぐっているその様子を覗き見てみたい。おそらく鬼気迫る、常軌を逸した気配を漂わせつつ、吠えるように泣くようにペンを走らせていたのではないだろうか。
 
 そして核心である物語のテーマだ。まず「白痴」というタイトルである。これは「ばか」とルビの振ってある箇所もあり、かつてIQ35を下回る重度知的障害を表わす公用語であったし、身体精神障害という概念の無かった明治時代には漠然とした外形的指標から使用されていた。医学的所見とは関わりなく、すこぶる差別的に使用されていたために現在は不適切な差別語として葬られている。小説ではそれは生来のものではなく「病気」とされ、スイスでの治療静養のおかげで寛解したためにロシアの首都ペテルスブルグにあらわれたところから小説は始まる。たしかにそれは病ではあっても、軽んじられ劣る者として小説の中でも差別されてもいる。また、ここで言う「白痴」とはむしろ「無垢」イノセントという意味合いなのだと理解すべきだという紹介を目にするが、ロシア語の原題にそのようなニュアンスがあるのかどうか知らない。しかし、それにしても小説中の主人公ムイシュキン公爵の頭脳の明晰さは、とくに人の心情や事態の洞察において他の登場人物よりもずいぶん優れ秀でている場面が随所に出てくる。まだ第一編では「一文無し」なのでなんとも頼りなく到底一人前とは見なされない風情だが、莫大な遺産を手にした第二編以降ではまったくそうした「病気」など忘れてしまう賢人ぶりも見せる。つまり、能力よりも人格性状が前面に出る場面だ。しかしそれにしてもその突拍子もない行動や了解しがたい思い込みは、やはり彼は「ばか」なのだと人々に思わせるに十分なのである。
 
 そしてムイシュキン公爵のナスターシャとアグラーヤに対する恋情についてだ。ナスターシャに対する想いは「憐み」に過ぎず、アグラーヤへの「本当の愛」に目覚めるなんて書かれた短いあらすじも目にしたが、おそらく本編を読んではいないのだろう。確かに小説の中でもムイシュキン公爵自身が、ナスターシャへの想いは「憐憫」だと告白している。しかし日本語でいう「憐み」は余裕持って幾分上から目線で哀れな者に同情するという、いわば余裕ある人間の施すいくらか胡散臭い美徳、善行を示す場合が少なくない。つまり安全地帯に身を置いている者がそこから一歩も出ることなく、危機にさらされている者へ施すのである。しかしムイシュキンのナスターシャに対する恋慕は、我を忘れ後先考えない破滅的な激情である。だからこそナスターシャ自身が最後の一線でムイシュキンを拒絶するのだ。ムイシュキンのこの異常な情動は、たとえば心理援助者がクライエントへの逆転移に呑まれ我を失う悲劇的な陥穽が想起されるし、つまりこれは仏教でいう「慈悲魔」なのではないか。相手に同情するあまり魔の虜となり相手を救済するどころか、自身が破滅に至る。これがムイシュキンが愛の化身たり得なかった所以である。当然の帰結として、物語の結末は誰一人救われない悲劇そのものとして終幕するのである。
 
 「白痴」はドストエフスキーが「もっとも美しい人間」を描こうとした作品だとされている。しかし無垢な美しいムイシュキンと粗野で欲望にまみれた醜悪なラゴージンと単純に概念対比させるのでは、あまりに薄っぺらと感じる。むしろドストエフスキー世界で真に至高に美しい人格が登場するとすれば、それは汚れた醜さの単なる反対概念でなく、美醜、聖邪といった二項対立を超えた、超絶「対立概念のない絶対性」としての美、あるいは聖であるはずだと思うのだ。なぜなら、ドストエフスキーこそは眩い光と底知れぬ影を同時に見抜き、それを描く作家だからだ。
 その苛烈なアンビバレントに宿る強烈なコントラストは他に比べるものがない。それはまず混じりようのない二種の人間がぶつかり合うコントラストであり、また一人の人間の内界が分裂し争闘しているコントラストである。そしてさらに出来事や事態そのものが光と闇を同時に孕むカオスそのものなのである。そのため読者は緊張に耐えられず、一方に肩入れして予定調和にすがりつこうとするのだが、期待は虚しく裏切られ、予期せぬ流動と新たな矛盾による変容にまた引き摺り込まれるのだ。
 究極の光と闇が極まるところ、それが彼が描く舞台だ。そしてそれこそが人の魂が生き生きと輝きだす彼岸の故郷ではないか。そしてまた、日々生きるこの世の日常そのものもまた実は光闇を同時に宿すカオス世界としての此岸なのだと知るのである。
 
 <むろん、これは夢である。悪夢である、狂気の沙汰である。しかし、その中になにやら悩ましいほど真実な、受難者のように正しいあるものがあって、それが『悪夢」も『狂気の沙汰』をも、ことごとくあがないつくしている。>
 
 ところで、ドストエフスキー自身が「白痴」において「もっとも美しい人間」を描こうとしたというが、作家の言葉をそのように切り取って作品の意味合いを決めつけるのはそもそもいかがなものかと思う。もとより作品は作家の動機や意図を超えて誕生するものではないだろうか。時に意に反しちぐはぐな失敗もあるだろうが、作家の意図をもはるかに超えた作品が誕生することだってある。ドストエフスキー作品こそ、作家ドストエフスキーを超えて誕生したものであり、逆説的だがそれこそが作家ドストエフスキーの比類ない作家的資質、天才的技量を証明していると言えないだろうか。
 作家の意図や狙いがどこにあろうとも、作品がすべてである。背景や経緯など解説がセットでないと成り立たない作品であれば、それはもうその時点で作品自身としての全体性が欠損している。また作品の理解受け止めのあり方に、まるでひとつの正しい解答があるかのような錯覚が、作品を存分に味わうのを妨げてしまうのだ。作家の意図や狙いのとおりにその小説を読まねばならない道理などない。作品の主題さえも、作家の認識などどうでもいいのである。なぜならひとたび作品として生まれ出たら、作品は文字通り一個の作品であり、作家の手からすでに離れているのだ。そして読者がその頁を開いた瞬間から、もう作品は「読者のもの」なのだ。どう読み、どう味わうか、それは読者にまったく自由に開かれている。そしてドストエフスキー作品だからこそ、それを強調したくもなるのである。
 実は高校時代私が初めて「罪と罰」読んだとき、私はラスコーリニコフとソーニャの壮大な恋愛物語として読んだ。私は感動し、圧倒的な感銘を受けた。そして十数年後再び読んだとき、それは手に汗握る長編推理サスペンス小説として夢中になって読んだ。さらにまた数十年後に開いた「罪と罰」は、悪とは何か、罪とは、良心と刑罰とは、という決定的核心の問いで読者を痛撃する哲学の物語だった。感じ方は自由なのだ。まったくの自由なのだ。解答などありえない。だからこそこんなふうに好き勝手に作品を論じ尽くしたくもなるのだ。また読者がその物語から多様な響きを無尽蔵に味わえるということこそ、ドストエフスキー作品の凄みであり魅力だ。文学の歴史的金字塔たるゆえんだと思う。ここに文学の肝がある。残念ながら、学校国語教育は文学世界の門までは連れて行ってくれるが、門の中には入れない。相容れないのだ。だから学校で習い覚えた読み方を捨て去ってから、文学の門をくぐるのである。
 
 そして黒澤の「白痴」について触れておきたい。黒澤明はドストエフスキーの信奉者だと知られている。1951年の映画「白痴」はその舞台を札幌に移して描いた意欲作だ。しかし商業的には失敗し、その評価は高くない。そもそも冒頭唐突にサイレント時代のようなカットタイトルの字幕が次々場面に挿入され、物語に入り込めないことこの上ない。実はこれ、4時間32分に及ぶ前後編の完成映画を、最終的に会社都合で2時間46分に編集カットされたしろものなのだ。最終的な短縮には黒澤自身タッチしていない。カット部分をテロップの文章でところどころ補うのだから、台無しどころの騒ぎでない。激怒した黒澤がカットするなら、フィルムを縦にカットすればいいと言い放ったと伝えられる。残念だ。もう黒澤の撮ったオリジナルの「白痴」は現存しない。しかし、それでもカット部分を想像して補うことがかろうじてできるのである。
 もとより三船に過剰な人格を演じさせることにかけて黒澤はお手のものだ。ラゴージンである。いい。そして千秋実のガーニャも素晴らしい。はじめ体型風采に違和感を覚えたが、姑息で小心な卑劣漢ぶりがにじみ出て見事。アグラーヤは二十歳の久我美子。れっきとした華族、侯爵令嬢である。整った美貌ではあるが派手さはないため、目を見張るロシアの絶世美女とはそのまま感ぜられないものの、気位の高さや不安定な激情や孤独感など堂々演じ切っている。そもそもドストエフスキー世界の過剰な苛烈さを演出できるのは黒澤をおいてないように思う。それを黒澤自身も自負していたのではないか。後年の「乱」では華麗な様式美ばかりが映像にあふれ、「リア王」の暗黒狂乱世界はほとんどうかがわれない。しかしこのころの黒澤は神がかっている。「白痴」には張りつめた狂気が充満し、観る者を緊張感で圧迫し、それはドストエフスキー作品と通底するものだ。そして肝心のムイシュキン亀田を演じる森雅之である。悪くはないのだが、ムイシュキンがただの「可哀想な究極の善人」として描かれているように思える場面があり、正直言って鼻白む。それはことさら見え透いたコラールのBGMのせいだ。これは本当に黒澤がつけた音楽なのだろうか。安手の押しつけがましい感動映画のよう。とはいえ、そもそもムイシュキンを演ずることは相当至難だろう。ここでは分かりやすく無類の善人ぶりを強調するほかなかったのかもしれない。そして何よりも原節子のナスターシャ、妙子である。圧巻だ。素晴らしい。小津映画のおっとりした日本女性振りが印象深いが、原自身はそれが相当不満だったらしい。実際の姿は実に聡明で行動的な「抗い闘う女性」で、当時親交のあった美輪明宏は実に「男前」だったと彼女を賞賛している。黒澤映画では「わが青春に悔いなし」に続くキャスティングだが、こちらでは文字通り時代社会に昂然と一人で闘う女性を演じている。原節子自身もっとも好きな役柄としてこの映画を挙げている。非国民と村八分にされながらも、泥にまみれ鬼気迫る表情でまなじりを決して、一心に鍬を振るう原の姿は厳粛ですらあり、圧倒させられる。自分の感情を圧し殺すことを女性の美徳とする風潮に応えた配役を演じながらも、実は何よりも女性としての「意志」を前面に押し出したい女優だったのだ。だからこそナスターシャを毒々しい美貌を誇る狂瀾の女性として演じ切ることができた。その姿から目を離せず、ずっと眺めていたいと思わせる。はまり役だ。黒いマント姿の原節子と分厚い革ジャンパーの三船が並ぶとただそれだけで画面は濃厚な豊饒さが溢れかえる。パーティで暖炉に包みを放り込む場面、そして終盤アグラーヤ綾子の久我とナスターシャ妙子原が対決する場面から暗闇の部屋で死臭を怖れながらムイシュキン亀田森とラゴージン赤間三船が夜を明かす場面まで、実に圧巻である。それにしても、つくづく惜しい。長尺のオリジナル版をぜひ観てみたいが、それも叶わない。短くしたのに長いと感じる。それは切れぎれにしたせいだ。4時間版の方が長いと感じなかっただろう。もう一度指摘したい。これは短く撮り直したものではない。完成版をところどころぶち切って短くしたものなのだ。作家が書き上げた270枚の小説を、出版社が原稿用紙90枚を抜き去って160枚の小説として販売したようなものだ。残念過ぎる。

 坂口安吾も好きな作家にドストエフスキーを挙げている。太宰の死に際して書いた「不良少年とキリスト」で、ドストエフスキーに短く触れている。
「芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。
 不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。
 ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。」
 最後アリョーシャが生みだされるためには、ムイシュキンの物語が必ず必要だったと想像される。安吾が支離滅裂と書いたとき、ムイシュキンの「白痴」物語が彼の頭に浮かんでいたのではないか。最後ムイシュキンは再び発病し、人の見わけもできない「白痴」に戻ってしまい、入院を余儀なくされる。アリョーシャは美しくあるがそれ以上に善である。しかし未稿に終わった「カラマゾフの兄弟」第二部では、アリョーシャが革命教団の指導者となる構想だったとも語られる。安吾自身が人間世界の光と闇を見つけ続けた作家である。ひょっとすると彼は、キリストに等しいアリョーシャよりも、むしろ支離滅裂なムイシュキンにひそかに惹かれていたのかもしれない。「白痴」の魅力はそこにある。
 読了するまでに数か月かかったせいで、しばらくは「白痴」ロスが続いた。なにしろ読了するのが嫌で、終盤はスピードがぐっと落ちたほどだ。言わばその供養のためにこの文章を書いたようなものだ。次は「悪霊」である。決めている。スタヴローギンだ。
 また存分にあのドストエフスキー節を堪能したい。今から楽しみである。

(<>内は「白痴」ドストエフスキー作米川正夫訳岩波文庫からの引用)

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 原浩一郎責任編集「文芸エム」創刊特別号、
 8月刊行へ。
 乞うご期待!
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