ベケット「ゴドーを待ちながら」1952

ベケットを観た。舞台ではない。没後30年映画祭で「ゴドーを待ちながら」が上映されたのだ。ベケットの戯曲をフィルム化しようというプロジェクトによるものらしく、戯曲を丁寧に映像化したものだという。
実はベケットについてまったく知らなかった。事前の知識はA4一枚のリーフレットに書かれた短い紹介文だけだ。なにやら超難解で「不条理演劇」と言われているらしい。ともかく演劇界隈では知らない者もいないほどによく知られた作品だから見て損はないはずと勧められ、会場の京都造形芸術大に向かった。
案の定冒頭からトンチンカンでついて行けない。すぐに眠りに落ちた。まもなく目がさめると、二人だけだった画面に四人が登場している。なんだこれは、と思いながらも、画面に惹きつけられしっかり最後まで見てしまった。感想としては、どうにも狐につままれた気分。不快なわけではない。むしろ気になって気になって仕方ない。無性にもう一度見てみたくなった。
帰宅後ネットで検索すると、ニコニコ動画に映画の冒頭約30分が字幕付きでアップされていた。しっかり見た。面白い。「なあんだ」気が抜けた。私は化かされていた魔法が解けたように愉快になった。これ、コントじゃないか。
言葉の掛け合いは、そう不思議や鏡の国のアリスを思い出す。尋ねたことが返って来ない。突然脈絡なく話題が飛ぶ。そしていきなりはじめに戻る。そして奇妙な間。ツッコミのないスリムクラブ。そのズレは春日だ。ベケットって、ノーベル文学賞受賞しているらしいが、これ「長編コント作家」と言っていい。決してベケットをくさしてるわけじゃない。コントに賞賛の拍手送っているのだ。
確かに映画を見ているときも、ここ笑いどころじゃねえの?という場面が何箇所かあった。会場で小さく笑う声が聞こえたが、全体はシンとしてなにやら硬い気配で皆押し黙っている。大いに笑ってもよかったのだ。
映画祭上映の字幕は、一切の意味を破壊する言わばシュールレアリズムの自動筆記のように感じたが、ニコニコ動画の字幕はすこぶるわかりやすい。もしやニコ動の字幕は不正確な意訳なのかもしれない。翌日図書館に走った。ベケットによる台本を開いて、youtubeの字幕なし映画を見ながら読んだ。やっぱり正真正銘のコントだ。面白い。ずっとクスクス、ニヤニヤが止まらず、吹き出してしまう。キャストも最高だ。そのうちその顔や仕草見ているだけでおかしくなる。是非とも舞台でも観たくなった。

それにしても難解だという評価はいったい何なんだろう。「ゴドーを待ちながら」はコントだ、という私のベケット評は専門家やファンからすればどうなのだろう。そうなんだよ、と笑顔で肩を抱かれるか、それとも「なんにもわかっちゃいない」と憤慨されるのだろうか。
そもそも、「わかる」とはなんだろう。いきなりウクライナ語を聞かされたら、「わからない」。だいたい高一程度の数学の問題だともう私は「わからない」。難解な物語とはどういうことだろう。
私は能楽が大好きだが、「能は難しくてわからない」と聞くことがある。前にも書いたが、私は能楽がわかったとは思わない。能が好きなのである。ジミヘンや大友良英をわかったなど思わないが、大好きなのである。それはつまるところ、「好き」=「良さがわかる」なのではないか。
だから「難解」だというのは、その良さがなかなかわからないということだ。何も数学やプログラム構文の話ではない。なかなかその良さが分からないということなら話は早い。人だって、異性だってそうじゃないか。「あんな奴のどこがいいんだ(あれは難解だ)」「あの人すごくいいじゃない(面白いじゃないか)」つまり、万人がイケメン、美人と認める人もあれば、「私にはイケメンに見えるワ」「俺はあいつかわいいと思うよ」ということもある。そういうことではないか。
「わかる」と「面白い」の関係。つまり分からなくてもとにかく「面白い」。「ゴドー」を見てまた想起したのはボブディランが神懸かり的に超絶革命的な歌を次々に発表した「bringing-」から「blond-」の時代の作品群。中でも私がいちばんはじめにディランに魅入られたのは「outlaw blues」だ。

Ain’t it hard to stumble
And land in some funny lagoon
Ain’t it hard to stumble
And land in some muddy lagoon Especially when its nine below zero And three o’clock in the afternoon

「おかしなラグーンにつまづいたらつらかろう
おかしなラグーンにつまづいたらつらかろう
特に零下2度の午後3時には」
片桐ユズルの確かこんな訳が見開きの黒いジャケットに白抜きで印刷されていた。チープな感じのギターがちゃがちゃ鳴らすブルースに乗せて、ノリノリで歌う。特に最後、And three o’clock in the afternoon! と弾けるように叫ぶ。「零下2度の午後3時には!」なんてかっこいいんだろう!もう目眩するほどしびれた。しかし、その意味は何かとか、どうでもいい。とにかくかっこいい。人によってはこれも「難解」な歌と評する「識者」もいるかもしれない。君はこの歌がわかっているのかね、なんて言われるかもしれない。どうでもいい。「分からなくても、とにかくかっこいい」からだ。

やっぱり、そうだ。「わかる」とは、「良さがわかる」「魅力を感じる」というそれだけのことだし、それだけでいい。

作品の理解の仕方は自由だ。好きになり方は自由である。しかしベケットを「難解」と称することで人を敬遠させてしまっているかもしれない。それはだってバカリズムの「都道府県の持ち方」が難解だっていうのと変わらない。考えようによっちゃ、あんな分からない難解なものもない。
まだ何も知らない人には先にこっそり教えてあげたい。ベケットはコントだよ。