Steve Jobs 「The crazy ones」

 今日は12月8日、真珠湾攻撃、そしてジョンが暗殺された日。
 昨日生の演奏を味わったせいで、なおさらジョンのこと思う。もう12月になれば町に山下達郎のクリスマスイブが流れ出す頃もあったが、時代はもうさらに暗くなっている。ジョンのHappy X’mas がさかんに流された頃もあったのだが。
 ジョンのことを思うと切なくなる。今でこそ子供向けの偉人伝にまでなっているが、生前は皆の顰蹙買う悪趣味なトラブルメーカーと苦笑を誘っていたではなかったか。
 もうずいぶん前になるが「The crazy ones」というAPPLEのTVCMがあった。クレイジーと言われた「天才」たちの映像が連なる。ボブディランやキング牧師、ピカソやヒチコックなど。ナレーションはスティーブジョブズだ。その中にきちんとジョンがベッドインで Give peace a chance を歌う映像も挟まれている。まさにクレイジーと言われながら、世界を変えた一人だ。
 このCMがなんとも深い感銘を与えるのはそのBGM。弾けた音楽ではない。静謐なバラードである。どことなくもの悲しくも聞こえる。それは「わかってもらえなさ」の響きだ。
 自分を天才たちになぞらえるのは失笑ものだが、そうした「わかってもらえない」経験は人生につきものと思う。どうしてこんな当たり前のことがわかってもらえないのか。そういうとき理解者、同意者は皆無であり、単独者となる。一人だ。それは傲岸さが導いた孤立であったにせよ、精神にこたえる。怖ろしい世界と人間に和解を試みることもあろうが、共感や同意への過剰な期待は迎合に過ぎない。その折り合いをつけながら、生き延びる道を自分なりにみつけ選び取ることになる。
 最大多数の共感や同意つまり「いいね」が集まるところに至上のものなどない。もっとも賛同を集めるのは、つまらないものに決まっている。至高のものは、あとでわかる。あとになって、よくわかるものだ。本当にいいものは。
 むきだしのジョンは負う傷も多かっただろうが、それでも我々の歩む迎合妥協の人生で得られぬ静謐な境涯を許された人だったのではないか。外からのいかなる評価にも揺るがない内なる中心軸に従った生きようだったのだろう。そのたたずまいは美しい。
 ジョンが暗殺された日、私はミニコミ誌の編集後記を書いていた。大学キャンパスが移転するのを前に「さよなら広小路」とミニコミ誌には副題を付けた。個人的にもひとつの終わりを感じていたところにその訃報は届いた。あれからもう40年近くになる。こんなに彼のことを感じ続けて過ごすとは思わなかった。それどころでない。最初にジョンと出会ったのは「Mother」に文字通り震撼した14歳のときだから、もう50年前になるのだから凄まじい。
 こんなふうに人の人生に寄り添える作品を書けたらとまた思うのである。