シェイクスピア「ハムレット」1601

読んだあと、すぐにでもその印象や連想を素材にして考察を書ける作品もあれば、なんともひっかかりがなくネタにできないものもある。それはもちろん作品のせいというよりも、私の側の勝手な変数が導いた値にすぎないが。
「ハムレット」を読んだ。先に読んだ「リア王」や昨年西鶴からの流れで読んだ「ロミオとジュリエット」の読後感とまったく同様であった。感想や考察がすぐには書けない。なんともひっかかりがなかったとか、つまらなかったというのでは決してない。独特の感覚だ。読後の印象が奇妙な飽和で無音になる。面白かったのか、と問われてもすぐに答えられない。難解なわけではない。見せられた物語の人物や世界の全体を呑み込むのに少し時間が必要なのだ。とても不思議な感覚である。実はシェイクスピア作品以外にこのような感覚に襲われたことはない。物語がこちらのキャパを明らかに超えている。しかし、しばらくしてそれから時間を経るごとに、考察するほどにその深みがじわじわと明らかになり、その豊かな味わいが見事に沁みわたってくるのだ。それは予感以上の確信である。間違いない。
解説本を読めば、様々な引っ掛かりの回答は容易に得られただろうと思う。人物像とか事件の所以。しかしそれだとつまらない。作品を私が手に取ってそして読み上げたということは、なにがしか私が必然から呼びかけられていることがあるはずなのだ。だから私はしばらく作品の呼びかけに耳を澄ます。それはごくパーソナルな、私自身に気づくべき何かを教えてくれるメッセージだ。読書の至福である。

先週末第三回全国同人誌会議に参加した。
かつては芥川賞はじめ、同人誌掲載の小説が文学賞を受賞し、それが作家の文壇デビューとなる時代が長くあった。しかし今や同人誌と言えばコミック同人誌を指す時代となり、もはや同人グループを経由していない作家の方が多くなっている。文芸同人雑誌は衰亡の一途をたどっている。しかし文学自体が並行して衰えているわけでは決してない。つまり、文学と同人誌の関係がいつからかすれ違ってしまっているのだ。まただから全国の歴史ある同人誌グループが一堂に会した今回の会議は度し難い現実をそのままに呈示しているようでもあった。しかし、そうしたことよりも私は久しぶりに「文学」界隈の雰囲気を堪能することができた。
作家・小説家という響きには独特のものがある。そしてある種のステレオタイプが存在する。60年代初頭の日本を描いた「三丁目の夕日」という映画で主人公は小説家志望の青年であったし、寅さんの甥っ子もやがて育ち作家になる。いずれも吉岡秀隆が演じた。また是枝裕和監督の「海よりもまだ深く」では阿部寛が文学賞一度受賞したきり泣かず飛ばずの作家を演じた。彼の本棚には自身の単行本と受賞作を掲載した「文学界」がずらりと並んでいる。そして下段には島尾敏夫全集に埴谷雄高全集そして吉本隆明著作集の背表紙がちらりと見える。説明はなくとも作風も人格像も「時代遅れ」だと想像できる芸の細かさ。いずれにおいても十全とした成熟を果たせていない幼稚な人格だとあらわすのである。
それでも作家は「先生」である。その光芒があまりに魅力だからこそ人生を賭け、犠牲に捧げてもよいとすら思わせる。だから上述のキャラクターはその姿を揶揄したステレオタイプでもある。憧憬と揶揄を天秤にかけ、今や揶揄が勝るのであればそれは文学の敗北のようにも口惜しく思われるのである。若い女性がつき合ってはならない危険なだめんず男と言えば、今はバンドマンか役者志望の男だろうが、昔は作家志望の男がダントツだったろう。いっそもう一度ダメ男代表の地位を奪回できればいいのにと思う。
会議では課題に対する議論はさておき(正直なところもう手遅れかとも思われた)、主催の文芸思潮編集長や作家の方々に再会することができてとてもよかった。いずれもメジャー級文学賞の受賞歴ある面々だ。編集長は誌面編集発行のかたわら現在も小説や戯曲を精力的に発表し続けておられる。そしてその問題意識やテーマの探り方に私は深く共感する。だからこそ私の作風を大いに買ってもらったのもわかる。今回また仕切り直すことができたので、指導を仰いで行きたいと思っている。最大の収穫。励みたい。

そして「ハムレット」についてである。父王を殺害して母を后とした悪なる叔父王への善なる復讐劇ではない。もともと父が名望高く高潔で、叔父が品性下劣であるとしても、それはハムレットの主観的評価にすぎない。そして復讐という行為が当時の社会文化においてどのように評価されるものであったか、最初は気になった。赤穂浪士が武士の鑑と美談であったように。しかしやはりシェイクスピア劇は、時代の価値観を超えている。キリスト教倫理によって時代社会の価値観を超えているわけではない。ただ、それらが人生においてどのような連鎖と結末を導くのか、その末路を描くだけである。だからハムレット自身について言えば、その悲劇が教えるのは「人は真面目に間違う」ということだ。人は「真剣に過ちを犯す」という哀しみである。描かれているのは、見るからに邪悪で愚劣な動機で、悪を行うというものではない。また善なるものが悪に痛めつけられるという悲しみでもない。つまり被害者の自己正当化などではない。人は懸命に誠実に尽くしながら、罪を犯すのである。その否応ないこの世を生きるという過酷を知るからこそ、ハムレットは逡巡し苦悩し、やはりそして周囲までを破滅に巻き込みながら自身も潰えてしまうのである。ハムレットがはじめから抱えている虚無の心情はその顛末の行方を予感するように根深いものであったのだ。
どちらが正しいとか、誰が悪かったのかとか、あるいは犯人は誰かという責任論などまったく違うのだ。だから、どうすればよかったのかという解答など不要なのだ。そうした問いからシェイクスピア戯曲はすっかり次元を異にする。彼はただ、人の子と人の世を描いただけである。だから時代や民族の価値観からはるかに自由なまなざしだ。その深みが普遍へと肉迫する。
まさに文学の極みだ。憧れる。


▲「海よりもまだ深く」