ソポクレス「オイディプス三部作」B.C.497-406

狭義の三部作とは言えないらしいが、ギリシャ神話のオイディプス(エディプス)を題材としたギリシャ三大悲劇詩人ソポクレスによる戯曲三作品「オイディプス」「コローノスのオイディプス」そして「アンティゴネー」である。
よく知られるオイディプス王自身の父殺害と母姦淫の悲劇は「オイディプス」に描かれる。自ら目を潰し盲目となって町を去ってそののち、老いて娘とともに故国近くの丘を訪れ昇天するまでを描いた「コローノスのオイディプス」、そして残された亡き兄への敬慕を貫いた長女アンティゴネーと彼女を処刑せんとした王を見舞う悲劇を描くのが「アンティゴネー」である。
これまでフロイトのエディプスコンプレックスを通じての理解程度だったのだが、今回呉茂一の「ギリシャ悲劇 物語とその世界」を読み、あまりの面白さにぐっと惹き込まれた。先にアイスキュロスの作品群を読んだが、あまり惹かれるところはなかった。戯曲台本そのものではないが、ソポクレスの三部作は目の前の舞台を観ているようで、興奮しながら読み進めた。
当時の社会文化の柱である神託や預言については実感としてうけとめにくいが、それでもなおオイディプスをめぐる絶望、困惑混乱はそのまま現代においても私たちの心の深奥を揺さぶる普遍性を確かに持っている。
「オイディプス」は自ら知らぬままに罪を犯した者の物語だ。そこに悪意はない。出自に悩み混乱していたために、たまたま出くわした老人ー実は父だーと悶着を起こし谷に突き落としてしまうが、その何気ない事件が不吉な予言の成就であったことが何年もあとに明らかとなる。彼は父と知らず争ってしまった自身の軽卒を嘆いているのではない、父を殺し、その後町を救う英雄として母と婚姻し王に成り代わり、それを知った母も自死を選ぶという、それら結果としての罪に呆然自失するのだ。原因ではない。結果としての罪だ。知らなかったとは言え、父を殺し、母との間に四人の子を産んでしまったという結果という罪のために彼は自ら目をつぶし町を去る。それはつまり、彼の誠実を十分なほど示している。咎められる前に罪をよく自覚して自ら自分を罰している。ここなのだ。悪なる者が罪を犯すなら、それは誰もがさもあらんとただ聞き流すだろう。オイディプスは、智慧深く勇者でありまた善政で人々に慕われている善き人であったのだ。だからこそ自らを許せず、めしいとなって自らを追放したのだ。この不条理を悲劇という。罪なき者が罪犯す。この世を生きる人の子のまさに悲劇である。
そしてその十数年後に、もう老人然となったオイディプスは長女アンティゴネーとともに流浪の果てにその丘へやってくる。彼はもう神託を得て、何も知らなかった私に罪はなかった、と自らを許している。かつて彼を冷たく遠ざけた二人の息子が戦勝のための託宣に従って、老王を招こうとするが、彼は息子たちの掌返しを許さない。彼は老いているが死期を悟っており、誘惑や恫喝にも屈せず堂々として神意のままに従おうとする。そして預言のとおりに天上に昇天する。罪に絶望して終わる先作とは対照的に、十分に人の罪の何たるやを理解しその桎梏から解放されている。苦悩の果ての到達に思える。
そしてその後の長女アンティゴネーをめぐる物語だ。アンティゴネーは固い意志を持ち揺るがず行動も果断だ。王クレオンの禁令を犯し、さらされたままの兄の遺体に砂をかけ深夜ひそかに埋葬の礼をつくす。アンティゴネーにとってクレオンは叔父にあたるし、彼の息子ハイモンと婚約中だ。市民の反発を怖れ、はじめクレオンはアンティゴネーの罪を免れさせようとするが、アンティゴネーの方がはじめから覚悟を決めている。そしてクレオンの糾問を逆に論駁する。呉茂一の文章によるが、以下がその問答だ。
「そこで何とか始めは助けてやろうと考えた。ほんとうに自分でしたのか、掟を知らずにやったのではないか、などきくが、アンティゴネーは決心しているので、それに乗らない。掟は知っているが、それを出したのは、ゼウス神でも正義の女神でもない、国王といえども天地の法、死者は礼をもって葬るべきだという、定法を破棄することはできない、それは悠久の昔から伝わった法である。それにいずれは死ぬ身である、自分はもう数々の不仕合わせに疲れ果てた、今の自分にはむしろ死んだほうが、得なくらいだ。同腹の兄を葬るのは自分にとって義務である。それを怠って、死後長くあの世で身内から恨まれるほうが、ずっと辛いことだろう、いま私が愚かな行為をしたというなら、まずは愚かな人から愚かさを兎や角いわれることになる。こう言うアンティゴネーはもう始めから棄ててかかっているので、取りつきようもない。
・・・クレオンもようやく反抗的態度に立腹して、禁令を破ったうえに、得意になってそれを自慢気に言い立てるとは、厳罰に処するほかない、と怒鳴りつけた。この上は一族とて容赦はできない、妹のほうも必ず共謀していようから、いっしょに処刑する、と従者に命じた。アンティゴネーはいっそう憤激して、早くどうなりかたを付けるがいい、わたしは兄弟の葬いをしたという、誰もできなかった立派な仕事の名誉のうちに死ぬのだから。列席の長老がたもきっと同心して下さろう。ただ王の権力を憚って黙っているだけだ、という。
クレオンは彼女に分別の欠けていること、国家の敵につくすことを非難するが、親身の兄につくすのは当然だと反発される。それに敵も味方も、死んだ後は同じである、あの世では両方へ、是非にかかわらずみな、死者への勤行が要求されるのだ。それに対するクレオンの言い分は、良い者と悪い者とが同じ扱いを受けるのは不当だ、という、それに答えてアンティゴネーは、あの世ではそうした区別はない、それにわたしはともども憎みあうようにではなく、愛をわけあうように生まれた者だ、と断言する。重なる反撃に逆上した王は、それならあの世へいって、勝手に亡者らと愛しあうがいい、私の生きている間は、女の勝手にはさせぬ、と叫び立てた。」
国法よりも神の法が優先するという果敢な断言である。国法に従い国からの罰を免れても、それは神の法を破ることだからむしろ神の罰を怖れる。国法を破り処刑されても、神の祝福を得られると言い切っている。なんともすさまじい。これが「アンティゴネー」の核だ。
その後預言者の言葉におののいたクレオンはアンティゴネーの処刑(岩屋への閉じ込め)をとどめんとするが、そこには首を吊ったアンティゴネーと彼女の亡骸を抱きしめて号泣する息子ハイモンの姿。そしてハイモンは父クレオンの姿を見るや短剣で自害する。
なんとも圧倒的な悲劇物語である。
罪なき者が罪を犯し、自ら罰を課す「オイディプス」。知らずに犯した罪は罪でないと悟った「コローノスのオイディプス」。国法による罪は普遍によこたわる法の前に無効だと宣言する「アンティゴネー」。この三部作は、まさに「罪と罰」の物語に思える。
そして、想起するのはシェイクスピアの悲劇群だ。受け継がれる悲劇物語である。
舞台を観たい。心からそう思う。
ところで、wikiによると「オイディプス王」の日本における上演は、中島貞夫監督の台本演出による1958年の舞台(監督が倉本聰らと結成された「東京大学ギリシャ悲劇研究会」公演)が最初に挙げられている。私の小説が舞台になったことを監督に話すと監督は「卒業する時、演劇に進むか映画に進むか、ずいぶん悩んだんだ」としみじみと話されていた。監督のアナーキーな映画の底でマグマのように煮えたぎっているエネルギーは不条理な悲劇に対する抗いのように感じる。監督も人の世の悲劇を直視されてきた表現者なのだと改めて感じた。