悲劇の所以
悲劇、つまりその物語が喜びや楽しさよりも悲しみを描くもの。希望や安堵を最後に与えるのでなく、「救いのない」物語。それが古くから演じられ描かれてきたのはなぜなのか。その理由ははっきりとわかる。この世界が、人が生きるということが、決して最後に救われるというものではないからだ。だからこそ悲しみを描くより明るい希望を描けばよいではないか、と言われそうだが、それは違う。痛みによってしか癒されない痛みがある。悲しみによってしか寄り添えない悲しみがあるからだ。希望や安堵が気休めどころか、残虐非道な仕打ちでしかない、そういう苦の現実があるからだ。
普遍的な意味合いを定義づけようというのではない。喜びや希望で自身の悲しみを癒したい人があればそういう物語を手に取ればよい。それをどうこう言っているのではない。人の世の悲しみや否応なさを平気で「ないもの扱い」する無神経な楽観性の横暴を少しだけとどめてほしいと願うだけだ。そもそも演劇や小説は、そうした日常で得られない心的体験のためでなかったか。そして救いのないと見える結末にこそ、私たちが知らない次元の救いの様相が語られているのかもしれないと思うからだ。
この春に、四年半勤めた刑務所から遠ざかることになった。その終結は私の本意ではなかったが、私のような者を快く迎えてくれた職員の方々との交歓を想えば愛惜しかない。私は彼らが大好きであった。今でも、変わらない。彼らの中に入ると私は異質ではあったが、私は一人でその中に入れてくださいと扉を叩いた方であって、私の側に選択肢はない。私を迎えるも拒むも彼ら次第であったし、その立場はむしろ居心地よかった。
彼らとの交わりで私が学んだことはとても多く、深く心揺さぶられた体験も多い。しかしそれを他の人に分かりやすく述べることは難しい。さまざまな前提から始めねばならないからだ。まだ到底私には手に余るが、いつか刑務官物語を上梓できればと想像したりする。
刑務所から遠ざかることはまったく意図していなかったので、私は途方に暮れた。それからバイト先をいくつか通ったがフィット感はない。それほど私は刑務所に片思いしていた。
「身を置く」という言葉がある。その現場に身を置かねば、どれほど本を読み伝聞を聞いてもその「空気感」を体感することはできない。知らないに等しい。そして、である。そこにシンパシーを抱いたら、何より「身を置く」ことしかないのだ。力になりたい。役に立ちたい。そう思うのは自由だが、それは余計なお世話であったり、いったいお前に何ができるのか、という声をしっかり受け止めねばならない。
臨床を意味するclinicの原義は死の床にある人のかたわらに立ち会うということだと衝撃をもって学んだことがあった。よく、寄り添う、とか、見守る、というその同伴の態度はそこからはじまっているのではないか。それは「聞く」ということだと理解している。受け止めるでもいいのだが、それはこちらの解釈だ。必死に相手、対象から聞くのである。言葉ではあっても言葉の字義ではない。その方を聞くのであり、同時にその方がまとっている事態を聞くのであり、その方のたどってきた過ぎ越し方を聞く。
居ても立ってもおれなくなり、一人その場に赴いたことが何度かある。阪神大震災のとき、四日目であったが無性に駆り立てられ西宮北口から芦屋まで歩いた。これは下衆な野次馬根性、好奇心にすぎないのだろうかと葛藤を抱えながら焦げ臭い被災地を歩いた。そして東北震災の福島へ。三週間後の無計画な往路は県南部で途絶し、改めてその三週後に一人で南相馬へボランティアに向かった。やはり身を置くことでしか知ることのできないものがある。身を置くことでしか聞こえない声がある。
今思えば、若い時分三里塚や日本原に向かったのもそこに身を置きたかったからではないかとも思う。旅という言い方をするが、それもそこに身を置いて耳澄まし心澄ました体験でなかったか。たくさんのことを私の心は聞いた。その声は今でも私の中にある。
それらは痛みの場所である。痛みの場所に身を置くこと。そこで何かを果たさねばならないのかもしれないが、私はもう身を置くことで胸がいっぱいになってしまう。
そしていつかそれらの体験が、腐葉土となり地層を重ねるようにして、まったく違う姿で立ち昇り物語に結ばれたらと思う。
そうして生まれた物語なら、悲劇であろうと救済の福音物語であろうと私はかまわない。だから思うのである。物語を書くのは私でも、これは私のものではない。彼らのものだ。