8.8 薬物事犯模擬裁判@龍谷大学(犯罪学研究センター共催)
昨日、龍谷大学犯罪学研究センターが共催するイベントに参加した。高校生中心による薬物事犯の模擬裁判だ。
構成はセンターによるので、もちろん実際の裁判の運用に基づいている。設定もしっかり工夫されている。否認事件のため証人尋問が重ねられ、即日の言い渡しだ。
イベントそもそもの趣旨は若者を対象とする薬物防止キャンペーンらしい。模擬裁判を通じて、薬物NO!を意識して欲しいというところ。模擬裁判とは言っても演じる高校生の背後に現役の弁護士、検事が控えてあれこれ助言している。流石に抜かりはない。裁判のあとは洛南病院の医師から短い講演もあった。薬物摂取による脳に対する影響を脳科学の観点から分かりやすく説明するもの。勉強になった。
ターゲットは高校生なので引率の教師に率いられ多数の高校生らも参加していた。
面白く興味深いイベントだった。
傍聴しつつ学生時代のことを思い出していた。
僕は或る大学の法学部に入学した。しかしもともと法律には全く関心はなかった。そういう入学生も多かったろうと思う。法律に関心と興味を持って欲しいという狙いからだろう、一回生のはじめに「こういう犯罪にはこれだけの量刑を課すことができる」と軽いノリの講義があった。「警察だけじゃなくて、君たちでも犯罪者を逮捕することができる」など、教員の狙いどおり講義は盛り上がった。しかし僕は一人で憤っていた。(何を考えてるんだ!)教員にも学生たちにも腹を立てていた。(人の人生がかかっている大変な事態をふざけてまるでゲームのように権力行使を弄ぶような態度は許せない)と思っていたのだ。この程度のことに本気で腹をたてるのもどうかと今では思うが、当時は周りみんなおかしいと一人苛立っていた。こんな調子だから友人もできない。でも僕は勉強はしたかったので、クラス担当の教授に疑問をぶつけた。「いきなり法律を当てはめて考えるのではなくて、そもそも何故法律が必要なのか、そこから考えたい」そう言う僕に対して教授は即答した。「そういうことを考えたいなら文学部へ移った方がいい。法学部では法律を前提として考える」がっくりきたのを覚えている。大学に通うのをやめて、僕は自分でカリキュラムを組み下宿で本を読み勉強した。古本屋で買い込み沢山の専門書を読んだ。初期ギリシャ哲学からマルエンまで。文学から芸術史、宗教は新約旧約コーランからゾロアスター教。スターリン全集なんてのまで読んだ。国際政治史から有名どころの歴史物など。そのうち新聞配達のバイト初めて、大学には全く顔を出さなくなった。めちゃくちゃだなw。大学行かなくなった理由はもうひとつある。クラスである社会問題についての討議があり、そのときの僕の発言から「〇〇(僕の名)は革マルらしい」ととんでもない噂が流れていると同級生から聞いたのだ。びっくりして唖然とした。対立する政治党派の学生が多い大学だったから勝手に妄想して言いふらしたのだろうが、引きこもり気味のぼっち学生つかまえてそれはないだろ、と馬鹿馬鹿しく嫌になった。まだそういう時代だったのだ。ともかく法律から心はまったく離れて行った。
紆余曲折あり、ようやくどうにか政治学を専攻して五年がかりで卒業はしたが、あのときのことを思い出す。当時、軽いタッチで人を裁き刑罰を科する話にどうして乗れなかったのか。それはやはり来歴のせいだろう。前にここにも書いたが、十代のとき手錠かけられた末に警察の檻に一晩泊められた体験がやはり大きい。そんなことやはり滅多に経験しないことだから、僕の反応は容易に同級生や教員には理解できずに当然だと今は思う。警察に捕まり裁判にかけられることなどまったくありえないし想像のかけらもしない学生がほとんどだ。つまり究極の他人事なのだ。僕はいつかどこかで理由もなく逮捕されたり裁判にかけられることがあるかもしれないとどこかで思っていた気がする。そうした僕がやがて裁判所に勤め、その後も刑事政策界隈をずっと人生うろうろするのだからわからない。あのとき無邪気に誰でも犯罪者を逮捕していいと聞き歓声を上げていた多くの学生は普通のサラリーマンになって行ったのではないか。そしておそらく彼らは決して警察や裁判所、もちろん刑務所とも無縁の生活を送っただろうと思う。私と彼らの間にやはり隔たりがあるのを感じる。
イベントの最後にセンター長の石塚教授が是非実際の裁判傍聴に行って欲しいと参加者に強く促した。素晴らしい、と思って聞いていた。それは市民にとって普段触れることのない世界を覗き込む体験であり、言わば「越境」である。自分の属する「こちら側」からは窺い知れない「あちら側」への越境なのだ。「こちら側」しか知らない者は、「あちら側」を恐怖し警戒しあるいは侮り蔑み、妄想膨らましてありもしない「幻想のあちら側」を作り上げてしまう。だから「現実のあちら側」をじかに見て触れて知ることが大事なのだと思う。
「裁判」は社会的機能であると同時にそれが刑事であれば、被告以下関わる人々にとって個人的なその人生にとっての意味がある。またさらには、検察、弁護士、裁判官といった役職を果たすその人自身の人生にとって個人的な個別体験としての意味もある。裁判とはなんと豊かで深遠なドラマだろうかとも思う。たとえ注目されない「ありふれた」小さな裁判であったとしてもだ。私も時間を見つけては傍聴に行こうと思った。