異界と現世をペーストする~安田登@山本能楽堂

念願していた安田登さんの講座をお聞きすることができた。大阪山本能楽堂の伝統芸能塾まっちゃまちサロンだ。時間も短く、また入門講座なので深淵なテーマもさらりと語られるにとどまったが、いくつかとても感じ入る話があった。
能の主人公に当たるシテに対してワキの役柄は夢幻能を例に「亡霊を招き入れる」つまり絶対的に隔たっているあの世(異界)とこの世(現世)の境をつなぐ、ペースト(貼り付ける)するのがその役割だという。とても興味深い話だ。これはどこか安田氏の著書で読んだ気がするのだが思い出せない。どうにも歯がゆい思いがした。
帰宅して「ワキから見る能世界」(NHK出版)を開いた。タイトルのとおり深くまた多岐にわたり「ワキ」の眼差しからワキという場所、状態を不可思議に魅力的に浮かび上がらせている。少し頁をめくっただけで、ぐいぐいと惹き込まれる。まるで初めて読むように新鮮だった。無理もない。初めてこの著書を開いたのは、まだ能世界のとばぐちに立ったばかりの頃だったからだ。
能に興味を抱き始めた頃、何か能を知るよい本はないかという私に或る人が貸してくれたのが梅原猛の「能を観る」と安田氏の「ワキから見る能世界」だった。

そもそも私はそれまで能にまったく興味も関心も抱いたことはなかった。ただ日本における「悲劇」物語を読みたいと思っていたところ、能に出会ったのだ。
三年ほど前だ。読者の求める感動や心地よさを提供し、ただ消費されるだけの物語ではなく、読者の欲しがるものを越えてむしろ衝き動かす力のある物語を書けるようになりたいと私は呻吟していた。まずシェークスピア悲劇の映画化作品群をパブリックドメイン版で次々に観た。「決して救われない顛末」には心の深奥を衝き動かされた。日本の悲劇物語に触れたいと考え思い当たったのが「怪談」であった。本棚の奥から「鶴屋南北の世界」を引っ張り出したがあまりピンと来ない。歌舞伎に詳しい上記の友人にそのことを話したとき、「能」を勧められたのだ。
そこで初めて「能」を調べてみた。だから私はまず「物語」としての能に触れたのだ。それぞれ能物語のあらすじを見てとても驚いた。こんなにも人々の悲嘆や不幸をテーマとする物語があったのか。俄然興味が湧いた。たしか最初にyoutubeで実際の能舞台を見たのだ。とても新鮮だった。知らないストーリーを展開するのでなく、あらかじめその展開が分かっていて味わうのだ。それは好きな音楽を繰り返し聞くのと同じであるし、好きな詩を何回でも読んで味わうのと同様なのだ。だから歌詞カードを開きながら曲を聴くように、台本(謡い本)を手に観るのだと知った。演劇でありながら、通常の舞台とまったく違う。また、その楽隊に興味を惹かれた。なかでも「大鼓(おおつづみ)」の乾いた音には魅了された。実は、はじめそれは楽器の音と気づかず「物音」にしか聞こえなかった。なんという魅力的な響き。だけでない。楽隊が奏でるBGMは五線譜音階の枠組みから自由に解き放たれ、シテの心情や場面の意味合いを実に際立たせる。その頃、大友良英のノイズミュージックを好んで聞いていたので、ジミヘンのアメリカ国家やエマーソンのカレリア組曲と同じ魅力だと自分で興奮した。その頃は大阪に仕事で通っていたのだが、ちょうど近所の公園で開かれる「桜まつり」で野外能があると知り、出かけたのだ。初の生「能」だ。衝撃を受けた。能衣装のきらびやかさにも驚いたが、何よりも「囃子」にすっかり魅了されたのだ。曲は「高砂」であったが、肝心の舞よりも、囃子方のエキサイティングな演奏や発声に心底しびれた。ジャニスやジムモリソンの叫びとまったく変わらないように聞こえた。私はそれから本格的に能の虜となった。その頃である。紹介され「ワキから見る能世界」を読んだのは。
テレビ番組で能舞台を放映するのはもちろん欠かさないし、目当ての演目のDVDがネットに売り出されていると購入する。しかし、やはり能は生の舞台だ。しばらく見ていないと無性に観劇したくなる。しかしだ。残念ながら高いのだ。能楽堂の公演は狂言と併せ午前から夕方近くまで複数演じられる。だから値が張る。シニア料金の映画なら4本は見られるほどだ。京都は観世会館はじめいくつもの能楽堂があり、観てみたい能役者、曲の舞台を知ってもなかなか行けないのだ。とても悔しい。しかし比較的料金を抑えた舞台もあるし、初心者向けにバラエティ富んだイベントもある。また地元滋賀はもともと近江申楽の地であるし、時折能が上演される。さらに学生の能発表会は無料である。学生とは言え、囃子方はプロの能楽師たちであるから、能ワールドに飢えている心境にはオアシスの水である。だからいそいそ出かけるのである。

こんなに能にはまってしまったのだが飽きない。とにかく深いのだ。味わいにきりがないのだ。物語、所作、舞、囃子、笛、鼓、謡い。それぞれがとてつもない深い。清廉な深淵の表現体だ。その姿には果てしなく憧れる。
はじめ「悲劇」を求めて能に出会った私だが、能世界が私に提示するのは「悲劇」ではなく「死生」だ。人はあとになって知る者であるから、死してのちに我が生を知る、その物語なのである。圧倒される。こういう死から眺める生を描き出す表現を他に知らない。
だから冒頭触れた安田氏の言葉なのである。異界と現世をつなぐワキ。それはまさに能の肝であり核心なのだと思うのである。
昨日は機会もなく果たせなかったが、ぜひ一度安田氏と言葉を交わしたいと念願する。まず何よりも能世界の深淵にその書物でもっていざなわれたその感謝をもってお礼が言いたいだけなのである。能は私の創作の源泉である。