盛岡の町に
盛岡駅を出てしばらく行くと、大きな川を渡った。北上川だ。
北上川といえば僕らは「北上夜曲」を思い出す。誰の歌だったのだろう。ダークダックスとかそのあたりではないか。紅白歌合戦とか、おそらく幼い頃に幾度か耳にしてその印象的なメロディがいつのまにか心に残っていたのだ。十代後半になってから、当時よくあったソングブックにその曲の譜をよく見た。そのメロディはもの悲しく、日本演歌調ではない不思議な異国情緒があった。ロシア民謡のような、シンとした遠い郷愁があったのを思い出した。
橋のたもとに市内の名所を示す看板があり、そこに宮沢賢治が若い時代に過ごした事跡が記されていた。そうか、宮沢賢治が旧制の中学から高校にかけてこの盛岡の町で暮らしたのだ。そう思うと胸に迫るものがあった。
賢治と言えば花巻の印象が強い。しかし疾風怒濤の青年期を過ごしたのはこの盛岡だ。
賢治については、あまりに深く巨大でまたとてつもなく透明なので語ることが難しい。梅原猛が賢治の苦悩を日本古来の「地獄の思想」から紐解いたのはなるほど合点がゆく。核心的でありながら広大無辺なその深淵を語るには、逆説的に地獄を持ち出すほかないのかもしれない。
当時フロイトに並んだ性科学者の著書からクロポトキンまでもが賢治の蔵書にあったという点に注目した鶴見俊輔は木下尚江との近似性を語っている。新し物好きでハイカラな趣味は有名だが、彼の精神枠にはキリスト教や社会主義思想まで含んでいたのは驚かされる。こう書いても語れば語るほどに彼の存在を矮小化してしまうことになる。つくづく宮沢賢治はありえない人だ。
ところで私は九州のそれも南端鹿児島の生まれである。だから東北はまるで違う国のような遠さを感じさせる。戊辰戦争で戦った傷痕もそこにはひそかに横たわっているのかもしれない。薩長軍が会津藩で殺戮と掠奪凌辱の限りをつくした非道さが歴史から隠蔽されていることがしばしば指摘される。奥羽越列藩同盟が強いられた敗者としての烙印がおそらくそれからも重くのしかかったことは容易に想像できる。盛岡藩はその急先鋒だったわけではないが、藩主は転封を命じられている。東北に感じる静謐さの背景にはそうした重みもあるのだろうか。
それはうがち過ぎかもしれない。そもそもの自然風土だ。関東以西であれば、たとえ家から放逐されたとても生命としての危機に直結するわけではない。さらに南国なら外で寝ようと蚊や虫を払うだけだ。なんなら野生の果実をむしれば空腹も満たせる。自ずから風土が人生に対する態度を楽観的にさせる。しかし東北ならばどうだろう。もしも冬の夜に家を失っていたら、それはまさに生存の危機であり死と向かい合わねばならない。南国のはなはだしい相違は明らかだ。そもそもの風土として、用心や警戒をはじめから宿すのではないか。切実さの感覚がそもそも例えば九州とはまったく異なっているのではないかと想像する。
だからむしろ憧れるのである。多弁で浮ついた興奮を始終まとっている土地から見たら、すでに無言の覚悟を秘めている人格は憧れでしかない。それは余所者の空想する隣の芝生にすぎず、それは言いようのない諦めを秘めているというかもしれない。
それは私が旅行者だったからだということかもしれないが、盛岡滞在中に接した人はすべてその気配が優しかった。その人の醸し出す波動のようなものが、とても繊細でナイーブだった。
参加したイベントは「ファンタジー」を愛好する人々の集まりだった。そこで言葉を交わした人がなんと優しかったことか。私は場違いに「リアル」に魅入られた者だが、まるで「リアル」の暴力から逃れるシェルターのようであった。大阪に言わばファンタジーが上から下まで溢れる別空間のような町があるが、例えば夜など大変な喧騒である。肉体感覚だけではなく、それこそ波動が尖鋭的で攻撃的な一面すらある。だからあれは「ファンタジー」を愛好する故のナイーブさではなく、土地故のものではないかと思っている。それこそ場に異端の者があれば露骨に攻撃を向ける、そういう圧が感ぜられなかった。理由がどうあれ、もしそうした暴力的排除への回路が大きく開かれていないのであれば、それだけで今はとても尊い土地のようにも思う。
盛岡はいい町だった。好きな町だ。私は粗雑な人間だが、それが善意からではあってもただ「大きな声」や「強い力」に圧迫や恐怖を感じることもある。だから一人が好きだし、だから書く。盛岡の町でいい物語が書けそうな気だってする。町にマクドナルドがなくてとても困ったが、もう少しタイムスリップして若い宮沢賢治を存分に感じてみたかった。必ずもう一度行きたいと思う。
ところで東北自動車道のSAにコンビニが見当たらなかった。それはたまたまなのだろうか。気になった。