3.11
2011年4月末に書いたもの。
2011とはなんだったのか、震災体験とは私に、私たちにとってなんだったのか。
—
ボランティアに行ってきました。
福島原発30キロ圏内の南相馬市というところです。
震災以来原発事故に衝撃を受け、4月はじめ福島いわき市に行ったところ、常磐線が福島県で交通途絶していることを知り、
なんとか原発直近の地に行きたいと抑えきれない思いにつき動かされました。
福島原発のある福島海岸部の既存の交通機関はすべて不通で、ネットで調べ続けたところ、福島を通り越して宮城県まで行けば、1日1本臨時バスが南相馬まで走っていることがわかりました。これが唯一の外部との交通機関でした。
金がないため、東京まで深夜バス(4,000)、東京から仙台まで高速バス(3,000)を乗り継ぎ、仙台から南相馬(1,500)と、合計14時間バスに揺られ、一人南相馬に入りました。
現地で営業しているビジネスホテル(シングルバストイレなし4,300)で二泊しました。
福島第一原発の30キロ内圏なので事故後は屋内退避区域に指定され、現在は緊急時避難準備区域となっています。
妊婦、乳幼児は立ち入りが禁止とされています。
人口7万の町ですが、一旦は人口1万にまで減りましたが、現在は人々が戻り2-3万が居住しているということでした。
到着したのは夜8時半頃で、駅前と言っても小さな駅自体が地震以来閉まっており、あたりは暗く闇に沈んでいました。時折車は通るのですが、ひと気はなく、歩き続けた約50分見かけたのはたった一人だけでした。
小さな古いラブホテル風のビジネスホテルにチェックインしました。
フロントで、ボランティア関係ですか、ご苦労様です、と言われましたが、ボランティア「関係」と言われたのは、僕があまりに年を取っていたからかと思った。
翌朝ボランティアセンターに向かいました。
交通機関は動いていないので、また徒歩です。
1時間ほどかかり、午前9時過ぎに市役所に着いたのですが、ボランティアセンターが開設されている社会福祉協議会は福祉会館という別の場所でした。
市役所は大勢の人でごったがえしていました。証明書発行しているのは他県から来たボランティアでした。
そこから10分ほど歩き、南相馬市社会福祉協議会に到着しました。
受付をすると廊下で待機して、しばらくして簡単なレクチャーを受けました。
自己責任、装備や食事、移動、そして撮影禁止など。
それから、作業を自分で選びます。
私は遺留物洗浄のボランティアを選び、そこに名前の書いた付箋を貼りました。
現地では、体内被曝の危険あるためか、工事用のごつい防塵マスクを着用し、長いゴム手袋を使用し、決して素手で触ることがないように強く注意されました。
自衛隊から刻々届けられる泥に埋もれていたおびただしい写真、アルバム、賞状などを一枚一枚洗浄します。ほとんどが塩分で染料が溶け落ちるのですが、泥の中から少しずつ親子、家族、恋人同士の姿が浮かび上がってきました。
泥まみれの生徒手帳。はさんだプリクラ。数々の写真。
作業の手がゆるむので、淡々と一つ一つを集中して丁寧に洗浄します。
近くの人と協力し合い、黙々と作業します。
他の地域では個人のボランティアを断ったり、ボランティアが過剰気味だったりという中、
南相馬はまだまだボランティアを必要としていると聞いていました。
GW初日ということもあり、朝一番の時点で20名ほどの志願者が集っていました。
皆、寡黙で、僕のように一人で全国各地からやってきた者が多く、黙ってやってきて、黙々と作業をして、黙って去ってゆくという感じで、何か特別にいいことをしにやってきたという気配もなく、誰の評価も理解もはじめから期待も意識もしていないし、おそらくボランティアに参加したことすら誰にも知らせないだろうという印象の方々でした。
誰に頼まれたわけでもないし、貫かれていたのは「志願」ということです。
自分が自分の意志で志願してやってきたのだから、与えられた「任務」をただ淡々と堅実に果たす、それ以上でも以下でもないという感じでした。
理屈をこね、しゃべるより行動する方がいいという気配です。
淡々と自ら積極的にそして初めての出会いの中、協力し合い、配慮し合い行動します。
不満や困惑を口にしたり、場に障害を起こす人は一人もいません。
ボランティア初めての人が少なくなかったので、それは経験や慣れではなく、意識の問題と思えます。
前提となる意識が「志願」=発心だったからだと思います。
周りの人や被災者に頼まれたわけでもなく、ただ自分の意志で志願したのだから、自分の責任で任務を引き受け果たす、そういうことだったのだと思います。
20代が少なかったのは、志願するという意味がよくわかるのは30代以上なのかもしれないと思いました。
休憩時、終了後、参加者同士、語り合いました。
忘れられない出会いでしたが、それぞれ名前も聞かないまま、別れました。
おそらく二度と会うこともないと思いますが、かすかに出会う可能性があるとしたら、またどこかの災害現場だろうと思います。
皆さんにあいさつしてその夕方ホテルに帰りました。
セブンイレブンが時間限定で開店しており、カップヌードルを買って夕食にしました。
ホテルの浴場で、福井からボランティアに来ている方にまた話をお聞きしていました。
いつでもどこでも生活実践、本当にそうだと思いました。
翌朝5時にホテルを出て、駅前に40分かけて歩き、現地の人と世間話をしてバスを待ち、朝6時に南相馬、原ノ町を離れました。仙台へのバスの中、来るときは夜でわかりませんでしたが、道路の脇の田んぼは海水で浸っており、道端に船が何隻もひっくり返っており、電信柱は倒れ、いたるところに、車が泥に埋まったままとなっていました。
たくさんのことを感じました。よい体験になりました。
ハンセン病者の村に赴き神の愛を証しすることができなかったキリスト者の後悔と慙愧のこと。
この世に本当は闇の地はない、ということがよくわかりました。
隠れながらも溢れている神の愛、神の力を、明らかにあらわすことが、人にできることだということ。
さらに後智慧に結んで行きたいと思っています。