表現という営みを同じくする者として
先日、或る画家の方のギャラリーを見学させていただいた。
間近に原画を拝見できるだけでも幸運だが、その作家と言葉交わしながら作品を味わうのはまたさらに格別だ。
光が映すくっきりした影の輪郭が森の道や積雪の土手に浮かび上がる清冽な情景を精緻に描かれており、鑑賞してとてもみずみずしい心情に誘われた。
またそうした繊細な具象的描画に加えて観念上の事物が大きく書き加えられた作品群もあった。それは空中に屹立する巨大な石柱の上辺に広がる家々であったり、ありえない光景だ。「これは私の『知らないもの』です」とおっしゃる。知っていることよりも、知らないことの方が遥かに多いことを知るほどに、「知らないもの」への憧れは募るのだろうと思う。それは情報を得ることでは、知ることに至れない地平のことだ。
そしてまた「知っていることしか描けない」と繰り返し、その方は呟かれる。だから、描けないことを描こうとするのが画家の営みであると言われているのだと聞いていた。
さらに画家は言われる。「しかし描きながら、その絵が教えてくれることがあるのです」
いちいちそれらの言葉に深く共感した。何気なく書いた出来事や背景が、書き進めるうちに実は物語の大きな展開や主題のためになくてはならないあらかじめの伏線であったことに自分で驚かされることがある。ああ、そういう意味があったのかと自分で感動するのだ。これが良い力に操られて書いているひとつのバロメーターになる。自分の構想から一歩もはみ出ない物語しか書けないとき、書き手としての力は落ちていると自分で分かる。
その話をその画家の方に伝えるとよく理解し共感してくださった。
芸術という言い方はあまり馴染めないが、表現の営みに精魂を託している方との語らいは至福である。互いに、表現への歩みを自ら確かめる得難い機会になるからだ。