J・ウェイン「マクリントック」1963
映画「マクリントック」を観た。ジョンウェイン主演の西部劇である。かと言って、主人公はガンマンでも騎兵隊でもない。町をしきる実力者と自他ともに認める大地主の農民である。シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」を基にしたコメディ映画だという。
しかしシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」とはその女性の名前が同じくらいで、相当にアメリカ風である。ジョンウェインの人情あるビッグボスぶりはさすがだし、ああこれがアメリカ人の感性かと随所にその典型が見られる。まずは「荒々しいヒーロー」像だ。主人公には二年別居していた勝気な妻と東部の大学から帰ってきた美しい娘がいる。二人とも、親しく憧れている男がいる。妻と懇意にしているのは州知事で、娘と一緒に東部から帰ってきたのは大学総代を務めたエリートの青年。これが、Jウェインはじめとする西部の荒くれ男たちとは好対照の「嫌な奴」として描かれる。州知事は政府の命令のまま杓子定規に先住民を土地から追い出そうとして族長を捕まえるし、若者は東部の流行りのダンスを披露して女たちの喝采を浴びる。主人公はと言えば、先住民を助け武器を彼らに渡せないか思案するし、若者が舞台でダンスを披露しているその裏で西部の男同志タイマンの殴り合いを見守っている。映画の最大の見せ場は独立記念祭だが、そこで州知事は散々恥をかかされ、若い男もみっともない無様な姿をさらしてしまう。そして二人とも妻と娘からそでにされるのだ。生卵を顔にぶつけられる州知事や暴れ馬から振り落とされる若者の腰抜けぶりに観客は大いに笑い、そして「スカッとする」のだろう。言わば「マッチョ」が「インテリ」に勝利する痛快な展開ということになる。映画は1963年の作である。見ていてふっと、70年代初頭ベトナム戦をめぐり反戦派とニクソン支持派の巨大デモ隊同士が衝突する映像を思い出した。相手を見つけるや双方一斉に駆け出し敵に襲いかかってゆく。それは「ブルーカラー」と「学生」の衝突だとナレーションされていた。西部劇では農民だがそうしたアメリカ「開拓」時代の原像が脈々と受け継がれていたのだろうか。先年の「トランプ」派対「オバマ(候補はクリントンだが)」派の激しい対抗も想起する。しかしこの対抗軸が映画の主題ではない。手に負えない妻を従順な妻へと「じゃじゃ馬ならし」するのがこの映画のテーマだ。シェイクスピアの劇は、映画とラムの子供向け小説でしか知らないが、度外れて乱暴で反抗的な娘を従順な妻に変貌させる物語だ。その方法と言うのが凄まじい。平然と教師に暴力を振るうなど手に負えない娘に対して、その上を行くさらに常軌を逸したやり方でこてんぱんに娘をスポイルさせる。筋が通らないどころか到底理解不能なのだ。肉体的にも精神的にも破壊一歩手前(破壊されたのかもしれない)まで追い詰め、到頭娘を従わせる。おとなしく従順になった娘は最後には滔々と妻は夫に従うべきだと演説するまでになる。洗脳というか、まるで拷問の果てのうつろな表情が想像されて、なんともドン引きするストーリーだ。しかし、これはシェークスピアの「喜劇」にカテゴライズされる。当時のイギリス演劇にとっては、めちゃめちゃな娘に対してさらにめちゃめちゃな仕打ちで応える様子が笑いどころだったのかもしれない。ミソジニーだという指摘も当然だが、ともかくその「むちゃくちゃ」さを当時は面白がったかもしれないというのはわかる。「マクリントック」では主人公が最後独立記念祭で妻を追いかけまわす。妻はともかく逃げる。ほうほうの体で逃げる。店の棚を倒し、ガラスを割り、テーブルの料理を蹴散らし、妻は逃げ夫は追う。妻は下着姿だが、そのうち太腿あらわにびしょ濡れだ。町中の者が二人の様子を大笑いして楽しんでいる。そして最後、夫に捕まった妻は男の膝の上にうつぶせにされて尻を叩かれるお仕置きだ。やんやの喝采がピークになる。その夜、家のガラスに二人のシルエットが浮かび上がり仲直りして、ようやく二年ぶりのお楽しみなのだと暗示される。素直でない女には口で言ってもしょうがない。尻を叩いてお仕置きすればようやく男にぞっこんだと女は正直になれるということだ。これはシェークスピア以上に男に都合よすぎる気もするが、これはこれで上映当時の男たちには「痛快」なのだろう。尻叩きは欧米では幼時からの体罰であり、また性的嗜好ともされる。映画では妻だけでなく娘も目が覚めてへなちょこインテリから苦労人の牧童に乗り換える。その変心のきっかけがまったくわからないのだが、それも尻叩き、スパンキングが決定的契機だったとしか思えないのだ。つまりこちらも、反抗する女の「嫌い」も本音では「好き」であって、素直にさせるには男が尻を叩いて悲鳴上げさせればいいということ。どっちが強いかはっきりと教えてやればいい。強い男が素直になった弱い女を守ってやる。これが「スカッとする」のだ。
差別に陽も陰もない気がするが、なんとも陽気な男の女支配だ。これが日本ならやはり全然違う。日本における男性性の誇示はマッチョとは違う。アメリカの「ファミリー」と日本の「家」の違いになるか、日本の差別は暗い。陰湿だなとことさらに思う。
映画に関してはあと、男同志の「暴力」の描き方が興味深かった。これは「荒野の七人」で少し気になったこととも関わる。第一次戦までは英雄になるため嬉々として戦争に向かったという。この点はまた別に書きたい。