書くこと
スマートレターが届いた。一体何がと開いたら、もう30年近く前に自費出版した私の小説だった。添えられた手紙もなく、どのような意図で送付されたのか分からなかったが、汚れて染みの広がる一冊だけしか手元に残っていなかったので、まだ美しいその一冊はとてもありがたいと感謝した。
まだ三十代のときだ。当時しばらくの間小説を書いていた。もともとは小説など書いていない。初めて小説を書いたのは、実は中国に行ったときだ。一人で九日間華北から内モンゴルをうろついた。まるで傷病兵を収容するように多数のベッドが並ぶ巨大な広間のドミトリーで、寝転がってボールペンを握りノートに向かい一気に物語を書いた。それまで一度も小説を書いていない。書けるとも思えなかった。それが堰切ったように書き上げられたのだから不思議だ。周囲は中国語だけで、日本語を口にすることもない。夢の中でも皆中国語を喋っていたのを覚えている。それで抑えられていた言葉が内部から噴き上げたのかもしれない。
それからいくつか小説を書いた。労働運動から政治活動に足を踏み入れ、到頭仕事を辞めてしまった。それから弁護士事務所や編集プロダクションに勤め、そうしてフリーランスで独立する頃には書くことを辞めた。ごく小さな公募で賞を取ってはいたが、これでダメなら諦めようと応募した大きな賞には一次予選もかすらなかった。才能はないのだと断念し、六十歳になったら書こうと気休めのように自分に言い聞かせていた。
自費出版したのは100部だ。賞の最終選考に残り新聞やテレビの取材を受け、ラジオ番組にも出演した。またそれをきっかけに地方の青年会議所などから講演に呼ばれるなどした。しかし創作を断念してからは、それらはただ遠い過去のいっときの出来事に過ぎなかった。
実は創作を断念した理由のひとつに、書くことが少し怖くなったということもあった。当時書くことの動機は個人的な願望が大きく占めていた。現実で叶わぬことを物語で果たしていたのだ。ところが、書いた物語と同じような事態が現れることが続き、怖くなったのだ。ろくな願望ではない。これは良くないと自分で思った。
それからずっと後にこうしてまた小説を書いているが、もちろん書く際の動機に個人的な欲求を託していることはない。おそらく才ある書き手はずっと若いときから書く動機を我がものとして宿していたのだろうと思う。
送られてきた100頁余りの冊子に刺激されて、当時書いた文章を引っ張りだしてみた。良い文章もあるが、読む気にもならないものの方が多い。それでも、書くことによって救われてきたのは紛れない事実である。16から書き始めた詩は今でも書いているが、それはまったく自分のためだ。評価は期待していない。
そう言えば、当時吉本隆明の「試行」を購読していて、購読更新の連絡に詩を一片同封して吉本に送ったことがある。吉本から「みずみずしい情念」を感じる詩だと返事が来た。他の作品も読ませてほしいとあったが、送ってはいない。直筆の丁寧な手紙だけで充分だと思ったからだ。
「あなたは書くことで発病せずに済んだ」とセラピストに言われたことがある。そうだと思う。だから、私と同様書くことで生き延びることができる人が必ずあるだろうから書くことを伝えたいと思うが機会がない。その機会は訪れるだろうか。