演技「汚れ」考

演技「汚れ」考
〜劇団男魂(メンソウル)「バカデカ 勿忘草」

前に僕が書いた映画シナリオについて、脚本の師匠から「キャストするなら主役はどんな俳優さんがいいですか?」と問われた。シナリオの主人公は使命感などかけらもないやさぐれた刑務官だ。僕は「若い渡瀬恒彦」と答えた。いや、生きてる俳優さんで、と苦笑され、僕は返答に困った。師匠が知っているだろう俳優さんでは思いつかなかった。「今の俳優さんきれい過ぎて、汚い若い人はあまりいない」と私は答えた。師匠も同意した。そのあとで或る映画を見て、あ、この人ならぴったりと思ったのが、新井浩文。そして若くはないが、ピエール瀧。二人ともいなくなった。
実は師匠の脚本家は京都をフィールドとしているので知らないだろうと思い言わなかったが、僕はこれ杉本さんならピッタリだなと思っていた。
ということは、つまり杉本さんは「汚い」役ができる、ということだ。悪い、ではなくて、汚い。これは役者として大変な強みだと思う。
ヤクザは汚い。女ヤカラも汚い。マル暴の刑事もまず汚い。一言で言えば、清潔感がない。もちろん衛生的に不潔なのではなく、えもいわれぬ汚れの気配、つまり初々しさ無垢さの対極である。悪さとはまた違う。悪というよりも汚いのだ。だからきれいな俳優が悪ぶってもシラケる。
今回、杉本さんの演じる役は汚れだ。立ち居振る舞い、つまり背の曲げ具合、肩聳やかし具合、歩くときのがに股具合、座るときの足広げ具合、一挙手一投足が隙間なくガラ悪い。ここには自分をよく見せよう愛されようというせこい下心が寸分もない。いや、その世界にとってのよく見せよう愛されようとしているのだ。
私たちの常識とは異なるその世界の常識を、決して特殊で異様とは思わずこれが当たり前と疑わないものとしてその空気にどっぷり首まで浸かっているから、それを演じられる。
こちら側から見た異様を演じるのではなく(それはステレオタイプに過ぎない。大衆の偏見や先入観に依拠しているから「わかりやすい」ことにはなる)、その世界では異様でもなんでもない当たり前(リアル)を演じる。
だから、演技とは多重人格のような表れとなる。ただ、ここで書いたのは、あくまでも「そう見える」ということだ。演じる本人の内心はまったく問わない。そう見えるかどうかだけである。だから、役者が成りきったつもりかどうかでなく、その世界をよく知る人から見てどう見えるかがすべてとなる。
話がそれてしまった。「汚れ」についてだ。
「バカデカ」では、杉本さん演じる山下警部補が群を抜いてヨゴレだ。しかしもちろんリアルはまた違う。
以前の職業柄、内面もまた外面も言わば優しい刑事を知っている。しかし、それは大概少年課防犯課生活安全課の刑事たちだ。暴力団対策、マル暴の刑事は印象が全然違う。発する気配が例えれば猛獣のように危険だ。それは常に危険に身を置き、いつなんどき不意にいのちを狙われてもおかしくない、切迫した緊張感が骨の髄まで染み込んでいる。そばにいてピリピリする感覚。触れればバチバチっと放電しそうな感じ。それらは私が若いときの印象だから、今会えば分からない。
このいつなんどきいのちを狙われるかもしれないという切迫感は、例えば昔であれば対立する政治党派同士がゲバルトの殺し合いをしていた当時の組織幹部や活動家にも共通する。いつどこにいても襲撃の危険が常に迫っている。つまり、殺し合いという「戦場」の精神状態であり、「兵士」の心理である。ヤクザもマル暴デカも、兵士のようなものだ。元公安職員から「寝るときはいつもいざという時家族を守るために木刀を枕元に置いて寝ていた」と聞いたことがある。木刀は人を殺害することもできるれっきとした武器だ。鷹揚な武人は稀だ。兵士は一生一度も心底の安全や弛緩を経験しない。その緊張がそのまま人格となっているからだ。緊張下の息抜きは殺伐とした放縦となりがちだ。あくまでも戦時下である。身勝手でもある。それは突然不意の襲撃で切断されるかもしれない憩いに過ぎないからだ。
杉本さんの演じる汚れの底に流れているのはその殺伐たる不信、疑い、警戒である。そこまで表せるのは凄いことだ。
そして、「バカデカ」ではもう一人汚れを演じた俳優があった。年増の風俗嬢を演じた女優の菅川裕子さんだ。自身の劇団も持ち、脚本演出も手がけていると言うが、さすがである。普段の様子を知らないが、おそらく杉本さんと同様もともとは愛らしい表情を見せる方ではないかと推測する。劇では、泣かせる事情あって風俗で働いていると言うのだが、それももしかしたらでまかせで、或いはいつのまにか自分で本気に信じてしまった彼女の作り話かもしれない。脚本ではそれを真実としているかもしれないが、菅川さんの佇まいはそれを切ない嘘とも思わせた。いい。
あと同じ風俗店で働くナンバーワンの娘をあの岩佐真悠子さんが演じていた。こちらははじめから複雑な背景うかがわせる健気な美人だが、実は昔裏切られた男への復讐心が人生に大きくのしかかっている。男への復讐心から水商売に入る女性も少なくはないという。だまして金を巻き上げるのだ。風俗ならば自棄自罰を含んでしまう。彼女には「汚れ」がない。彼女はもともと類まれな美少女で今も美貌はそのままなので、「汚れきっていない」役所となったのだろう。二人の本格汚れのおかげで、ちっとも汚れて見えない。
長々汚れについて書いて来たが、実は汚れの抱える美しさを検討する前にひとつ書きたいことがある。それはネットなどに氾濫するペット、特に子犬子猫の「可愛い」映像を見ては気になることだ。
それは確かにただ見ただけで心和み愛らしさに顔も緩む。しかし私はあまり好きではない。家族のようにペットを大事にし共に生きるということにとやかく言いたいわけではない。ただ、可愛らしいものを大切に愛玩すると、可愛くないものにも同様に優しさを抱くのか、或いは魅力を感じないのかということ。ペットショップで売れ残った可愛くない小動物たちは殺処分されると見たことがある。これはなんなんだろう。
圧倒的に無力で、自分が圧力や危害を加えられることがまったくないという安心感で愛玩するなら、それは無自覚な支配を含まないか。自分が自由にコントロールできる優位の立場ゆえの可愛がりなら、自分がコントロールできなくなったら、相手が強くなったら、醜くなったら、その愛情は消えるのか。それは果たして、愛情なのか。
これは飛躍と受け止められるかもしれないが、愛国心と称して他国を貶め憎むことが平然と行われている。同じだ。
愛が愛を産まず、憎しみを育てる。それは愛なのか。愛するものを守る。それは そわかる。愛するものを守るために、敵を憎む。それは愛ではない。愛は愛を生む、それだけを愛という。でなければ、利己的な執着、愛着に過ぎない。
その葛藤は愛を問う者には切実なテーマだ。

「ふたりぞたゞのみさちありなんと
おもへば世界はあまりに暗く
かのひとまことにさちありなんと
まさしくねがへばこころはあかし

いざ起てまことのをのこの恋に
もの云ひもの読み苹果を喰める
ひとびとまことのさちならざれば
まことのねがひは充ちしにあらぬ」
(宮沢賢治)

無垢なるものを愛する。それが汚れたものを嫌悪、或いは蔑むことを呼び起こすなら、それはどうか。
「汚れ」を描くわけはそこにもある。
さらに、「汚れ」の果ての美しさも、永遠のテーマだ。「バカデカ」の風俗嬢だって、遠くソーニャとつながる。
そこに「罪」の力がある。
「罪」は決して、抹殺し否定し尽くすべきものではない。そこには、必ず何か意味が、価値が、呼びかけがあるはずなのだ。もし、罪がただ嫌悪し唾棄すべきなだけのものならば、だから「問い」なのである。神はなぜ人を罪犯すものとしてお造りになったのか、という叫びなのである。
項を改めて、汚れの果ての美しさを手がかりに罪の呼びかけを尋ねてみたい。