劇団男魂-「バカデカ 勿忘草」2019
演劇論は一冊も読んだことはないが、自分なりに悲劇と喜劇の関係については呑み込んだ。きっかけはメンソウルの舞台だが、見ていくとあらゆる悲劇は喜劇に移し替えることができるし、その逆も同様だ。しかし寅さん、チャップリンと言った喜劇が愛されるの同じように悲劇が愛されているわけではない。それは特に時代の傾向とも思われる。ひとつの事態を悲劇として受け止めるのは人生に対する態度としてあまり褒められるものではないという評価が浸透している。何事も明るく楽観的であるのがいいという。果たして本当にそうなのだろうか。無思慮なポジティブさは何かに目をつぶり、現実を否認したまま強引に事態を支配しようとしているときもある。痛みを否定する明るさは痛みにある人の存在を必ず無視する。つまり、悲劇が持っている価値、意味合いが不当に損なわれているように思うのだ。
悲劇の上質な深みや価値がどれほど理解されているだろうか。最近は特に気になるのが悲劇を最終的にその原因としての悪なる他者への怒りに結ぶものが多いことだ。それは悲劇とは言えない。それはアジテーションであり、特に昨今の全体主義的な時代特有の傾向だ。喜劇は喜劇として受け止められるように、悲劇は悲劇として受け止めるものであって、人を扇動し駆り立てるための仕掛けや道具ではない。悲劇をホールドする力がとみに失われているせいに見える。疲弊し消耗した精神は憎しみのエナジーによって活力を得るしかないのか。
これは悲しみや苦しみをただ忌避し嫌悪し我一人まず楽しみ喜ぼうとする快楽主義と、悲しみや苦しみに打ちひしがれても放置され見返られることのない人々の怨嗟が混じり合っているように見える。敢えて言えば、悲劇がいざなうのは「人の苦しみ我が苦しみ」の境地だと言っていいのではないか。上質な悲劇の復権を心底願う。
また、今回杉本舞台の新作を見て受け取ったテーマは清と濁についてだ。清いものと濁ったもの。美と醜の二項ではない。きれいなものと汚れたものについてだ。はじめきれいだったものが汚れると、それは転落と言われ言わばその価値が毀損される。大事にされる台座から突き落とされ、捨てられる。しかしだ。汚れたものが宿す美しさというものがある。いったん汚れたものはもう元に戻ることはできない。しかし、汚れたものが新たな美しさを手に入れることがある。それは無垢の清さとは次元を異にする美しさだ。ここでいう汚れるとは、知るということかもしれない。知ると、もう知らないでいた頃には戻ることはできない。これを、聖なるものと穢れの二項と見ればどうだろう。つまり、聖とは無垢ではない。穢れを通して聖に至るのであれば、そこに罪が果たす意味合いも見えてくるのかもしれない。
検討していきたい。あと2回はその舞台を目撃したい。