NHK「世界わが心の旅 父よ ニューヨークの悲しみよ 壇ふみ」2001
壇ふみが父檀一雄が滞在したニューヨークを訪れる。そこで壇ふみはそれまで読んでいない父の「火宅の人」を読むことになっているのだ。「火宅の人」は檀一雄が愛人との生活を赤裸々に記した事実上の私小説とされている。壇ふみは父の没後もその長編を実は読んでいない。父が愛人と同棲し家に寄りつかずとも、娘であるふみは父にそういった愛人の存在やその生活をまったく感じてはいなかったという。子供らに対しては優しく厳しくそして清潔を漂わせる父の気配からは想像ができなかったからだ。
ふみは壇が長期滞在したホテルをグリニッジビレッジに見つけ出し、おそらくそこに逗留したのであろう部屋にしばらく宿泊することにする。壇はそもそもニューヨークにやってきた動機を、愛人から離れて自身の執着の根を明らかにしたかったのだと記している。滞在中壇は残してきた愛人について嫉妬に狂い、そして太宰の幻影に誘われ何度も自殺の衝動に駆られていたことをふみは聞く。そしてふみは、当時壇がふみら子供達に宛ててニューヨークから書き送った手紙を開き、壇の寂寥に想いを馳せる。当時の父と同じ年になって、ふみは父の煩悶と流浪、愛欲に向き合うのだ。
そうしてふみは一人その長編を、父が苦悩に七転八倒したその部屋で開く。
読み終えてその感想をふみはこう述べる。父は家庭に縛られそれを振り切ることができず可哀想だとどこかで思ってきた。しかしそれは間違いだった。父は人生を謳歌したのだ。妻との不仲も子供らとの暖かい交歓も愛人との密愛もそして放浪も、それら人生を父檀一雄は謳歌したのだと。父を可哀想などと思ったことをとても恥ずかしいと述べるのだ。その言葉はどのようにも解釈しうるが、「同情して損をした」と一人芝居を馬鹿馬鹿しいといささかの憤懣を抱いたのかもしれないし、家庭生活からのはみ出しも絶望の苦悩をも謳歌する巨大な肯定感を作家檀一雄に見出したのかもしれない。
私は「火宅の人」を読んでいない。「花筐」以下一連の初期短編や先妻との愛憎描いた「リツ子その愛」「リツ子その死」は十代のときに愛読した。その後はポルトガル滞在記など漂白のルポ記などを面白く読んだが、もう重い個人的な私記録文学は手に取る気がしなかった。
檀一雄の、ときに破滅的とも称される苦悩と彷徨と文学を思うとき、彼はやはりまさに私小説作家であったと思う。作家にとって書けなくなることへの恐怖は、生きている資格を喪失するかのような絶望的戦慄を覚えるほどであったろう。私小説作家は書くための人生を選ぶ。単に創作の基としてということではなく、記述するまさに題材として自ら人生をたどる。それが単に表面的なそれこそ話題性があり求められるものに応えるためであれば、それはむしろエンタテインメントである。壇の滞在中の煩悶を見れば、それはすでに小説としてその姿も描かれることを自ら意識していたのではないかと思われる。誰も知らない一人の苦悩ではなく、それを小説のネタと一方で自覚していたのではないか。ただそれが見え透いた素人芝居になれば、小説的価値もなくなる。それは真剣で言わば普遍性に触れる煩悶であるがゆえに文学に昇華しうることも重々に理解した上でのこととなるのだが。
そもそも私小説作家ではなくとも、書くという行為は業が深い。なぜ、書くのか、という問いはつまり、なぜ書かずにはおれないのか、ということである。その問いに対する答えが記されたとしても、書かれたものはすべて読まれる視線を意識した答えに過ぎない。また内心で作家がひそかにつぶやいたことであっても、傍らに置いてそれを採点するための解答などはないのである。檀一雄の生き方を奔放と称し憧れを含ませることもできるし、一方ではその家族などたまったものではないと多くの人が思うのではないか。ただ、書くことを選ぶということは、それが自身の生まれてきた訳であるごく少数のまた才能ある人を除いては、罪悪を伴わざるえないことは明らかに思える。
檀一雄が最晩年福岡の小島で「火宅の人」の最終章を口述筆記してもらい息を引き取るまでのドキュメンタリーを以前観たことがある。やはり書く者は最後まで本当のことは決して書かないものなのだと思った。私小説とはそういうことだ。書くとはそういうことだ。