押見修造「惡の華」2014
Asa-Chang&巡礼のhanaの美しさに惹かれて辿るうちに、押見修造に出会った。若い人の間ではよく知られた漫画家なのだろうか。先日、若い友人が「開放倉庫」に連れて行ってくれた。メジャーになる前、もう何十年も前のvillage vanguardのよう。そこで押見修造の「惡の華」全11巻をワケアリ汚れあり1000円で購入した。
その日のうちに3巻を読み、なんとなくこういうものかとひとつの印象を持った。ところが、その翌日全巻を読破して、最初に抱いた印象は粉々に打ち砕かれた。圧倒された。こんな衝撃は久しぶりだ。感想すら言葉にしづらい。
Asa-Chang&巡礼の「花」はさまざまなヴァージョンがあるようだが、最初に聞いたのはアルバム収録の「Hana」だ。全篇に漂う悲痛な沈鬱は、今の若い人が通奏低音のように共通に抱えているものではないか。砂噛むような空虚感であり、今にも底なしの漆黒に振り落とされそうな切迫した危機とそれを回避することなど絶対に不能だという巨大な見知らぬ宣告にはじめから打ちのめされ、根底的な「無力」の感覚にただ伏している感じ。それは生命感がひどく擦り切れ衰えた、持続しない切れぎれの錯乱とでも言うか。私が体験し通過してきた10代とはまるで対極のように思う。だからもう反抗には意味がないのだ。そうした「抗い」はもう少年たちを救いはしないのだと改めて思った。
そこまでは「悪の華」を読む前のこと。Asa-Changの産み出す音楽についてだ。
「悪の華」についてはうまく書けない。
はじめ「変態」という性的罵倒がキーワードとなっている。それはタブーを破り周囲の日常の平穏を破壊し攪乱するのだが、そこに「悪」が重なってくる。最初その「変態性」は憧れの女生徒の体操着を偶発的なきっかけから盗んでしまうことに始まる。それを目撃した悪魔的な女生徒に脅され、さまざまな「変態行為」を強いられる。たとえば憧れであったその優等生の美少女と交際するようになった少年は、その女生徒の体操着とブルマをひそかに着用したままデートすることを強いられる。ここで描かれる「変態性」は中学3年生という思春期混乱の中では決して異常ではない倒錯衝動に過ぎず、それは秘するかどうかの差異でしかない。ところが少年はそうした「変態」行動で興奮を得ることをせず、ひたすら自罰感情に呑まれてゆく。通常はそうした性衝動を葛藤の中でやがて内在化して言わば飼いならしてゆくのだが、彼は自身の倒錯性を潔癖に拒絶し抑圧する。彼はそれまで支配され強制されて行動していたのだが、やがて前のめりに支配者である女生徒の願望をかなえようと逸脱が加速して行く。その転機は、悪魔的支配者である少女の孤独と哀しみを一方的に理解したことによる。優等生であった美少女をも巻き込み、やがてセンセーショナルな事件を起こす。敵は日常性である。それまでは学校内で事件を引き起こし校内あげての混乱を起こし不安を与えていたが、学校から出て町の日常性を破壊し大混乱を出現させようとある行動に出る。計画では少年と少女の死によってそれは終結するはずであったが、二人は生き残りそれまでの犯行すべてが明かるみに出される。それからあとは数年を経てのちの人格統合と関係修復の痛ましい歩みが綴られる。
そして最終のページに挿入されたものは、変わり者とされていたその悪魔的な少女の中学時代の心象風景である。風景と言うより主観体験と言っていいし、それはつまり「病い」を明かしている。
つまり、ここでずっと描かれてきた「悪」とは、つまり「病い」「逸脱」であったのだ。
世間で悪と言えば、殺人であるとか暴力的な他害行為を連想するが、主人公の少年らは一度たりとも生身の他者を物理的に傷つけようとは思わない。犯罪を「反社会的」「非社会的」と分けるカテゴライズがあるが、まさに彼らの「悪」は「非社会的」であり、自滅的な倫理モラルの破壊による不安と混乱の現出が目的なのだ。
犯罪は社会的な概念であるから、地域時代によって変異する相対的な規定に過ぎない。だから「悪」は地域と時代によってまったく異なる。描かれた悪は言わば普遍根源的な悪に迫ろうとしており、それはつまり「逸脱」のことであったのだ。
しかし、これ以上は書かない。もう少し時間をかけたい。
そもそも「悪の華」というそのタイトルはボードレールの詩集からとられている。だから悪とは反キリスト的色彩も帯びてはいるが、やはり21世紀の10代少年の心情的危機が基調といえる。
また、「悪」とは「逸脱」ではないか、と上にさらりと書いたが、それは何からの逸脱なのか。「普通」「多数」「常識」「正常」などからの「逸脱」ではない。やはりそれは、指導原理であり魂のまなざしによるものだとしか言いようがない。