野崎歓-「フランス文学と愛」2013
「フランス文学と愛」読了。同時にいろいろなもの並行して読むので、ずいぶん時間かかったのだが、新書とは思えないほど重厚な読み応え。読んでよかった。その時代らしく「愛」についての社会意識と文学作品が絡み合う鮮やかなクロニクル。面白かった。
つまりそれらの作品の「愉快さ」や「痛快さ」或いは「苛立ち」や「悲しみ」など呼び起こすその作品の魅力、面白さは、その時代の風俗文化という基盤を背景として成り立っているということがよくわかる。時代によって夫や妻の役割も立場も変わってくるし、男や女の魅力や弱みから新しい目覚めまで、時代が変わればすっかり違ってしまう。
当時のトレンドによって成立しているのだから、それらの小説は時代とセットでなければ魅力も成立しない。先に西鶴でこだわったように、小説を通じてその時代を味わう面白みがあるが、ただ現代の物差しのまま読んだならば意味不明なものとなり、ただ違和感だけが残るということになる。時代がすっかり変わっているのだから、当然でもある。
それで、シェークスピアの「ロミオとジュリエットの悲劇」だ。現代のそれとは異なる、その時代の恋愛観や性意識が味わえるものと期待して読んだのだが、正直言ってなんとも雲をつかむようなのだ。その時代らしい価値観に基づいた、現代では違和感を覚える箇所がきっとあると思って読んだのに、物語に入り込みそのまま読み終えてしまった。何か、狐につままれた感じ。
確かに、そもそも両家の対立と言っても言わばイタリア封建領主同士の対立であるから、ピンとこない。またそもそも対立の発端は何なのか。何か衝突する利害があるのか、過去の経緯によるのか。わからないままだ。このあたりは当時の時代文化について歴史的知識が前提にないと理解できない。しかしそれは物語の中心ではない。背景に過ぎない。ロミオとジュリエットという16歳と14歳の男女が出会いほんの数日の間に閃光のような恋愛に陥り結婚しそして不運と誤解からあっけなく死に至る。その二人の物語には上に書いた時代による違和感を感じないのだ。これはどういうことなのだろうと考えていた。つまりダサいコピーめいているが、物語が時代の差を超えているのではないか。つまり、土地や時代のくびきから超越している、普遍性を有しているということだ。これは驚異的なことだ。
これは単に物語の展開ストーリーや主題設定の妙ではない気がする。人間の普遍に触れているということではないか。だから、時代が変遷を経てもその魅力を失わない。これが、歴史的名著つまり古典ということなのか。これはやはり作家の力だ。そのセリフの一つ一つ、そこで動く心が、時代とも土地とも関わりないつまり魂に突き動かされているのだ。すごい。
あくまで僕なりの仮説である。こう書くとそんなこと当たり前の常識ではないか、古典とは時代を超えるものだと一言で済まされそうだが、そうではないのだ。心は幼児体験や両親からの強い影響を個別に根底的に受ける。さらに心は時代や土地の価値観をその基盤として枠組みを作る。それが心というものだ。通常心のレベルで生きているから、物語を作るにしても味わうにしても、そうした言わば桎梏の中にある。桎梏とはもちろん感じない。それが自分の心であり、それ以外知らないからだ。物語を描くにしても、様々な人格を描くとは様々な心を描くということであり、それぞれの人物の両親原家庭、時代や土地柄国柄を様々に想定して描き出す。そうではなくて、そうしたこの世に生まれ落ちたその条件とは関わりなく、言わばその人格の心よりもさらに深い魂に突き動かされ、この世の条件を取っ払った生き様を描くというのは並大抵ではない。
確かに、ドストにしろトルストイにせよ、確かにそうだ。その時代や土地から立ち上る価値観とは違うもっと深い人間的なテーマに主人公は囚われている。それが光であれ、或いは闇であれ。そういうことか。
なるほど、「魂文学」という言葉にこだわっていたが、自分でわかっていなかった。この世に生まれ落ちた諸条件による物語ではなく、さらに深いところ魂から突き動かされた人の物語は、時代も土地も超えるものなのだ。一過性の物語でなく、人の普遍に触れる物語とはそういうことだ。
これが鍵のような気がする。他のシェークスピア劇も読んでみよう。もう少し考察したい。