近松門左衛門-「大経師昔暦」1715
溝口の近松物語があまりに良かったので図書館から借りて近松を読んでいる。もちろん、そのままの本文では、高校時代授業サボりまくって教科書も持っていなかった僕には意味不明な箇所多すぎて読めやしない。上段に用語の解説、下段に口語訳と三段構えを上下目ん玉キョロキョロ動かしながら読み進める。この構成がいちばん読みやすい。能楽本も同じこの小学館古典文学全集を揃えている。
面白い。近世の空気感が未知なので、さぐりさぐりとなるのだが、徹底した恋情賛美だ。それは手の届かぬ憧れであったのだろう。死罪を覚悟に密通して遂げるわけなのだから、奥さんの、あるいは旦那の目を盗んでうまいこと、という今の不倫とはわけが違う。警察の目を盗んで行なう犯罪行為のわけだから。となると、そうした犯罪行為への庶民の憧れを扇動するのだから、それは弾圧されて仕方ない。それでも、庶民の圧倒的熱狂を呼んだというのだから痛快であるし、人形芝居とは言え浄瑠璃劇、とんでもないパワーだ。
で、物語の悪役は今の時代から見ても共感できる「嫌な奴」だ。人間の性状に対する嫌悪の質はさして変わらない。
近松は江戸中期における物語だし、能楽はさらに古く世阿弥などは室町期だ。能物語における人間評価が現代から見て異様ではないのだから、近世がさほど違うわけもない。面白い。こんなに何もかもが変わっているのに、人の人に対する賞賛嫌悪の眼差しが変わっていない。死生観、主従観、自然観などはすっかり違っている。それでも人に対して人が抱く感情はあまり変わりないのだ。とても興味深い。
溝口の映画「近松物語」とその原作である近松門左衛門の「大経師昔暦」とでは細々と相違がある。もともとこれは現実の事件をモデルにしており、初演は刑死した主人公たちを追善供養するためのものとして書かれている。だから、烏丸四条下る(今で言う)カレンダー出版社「大経師」の社長夫人おさんとその従業員茂兵衛の不倫による死刑判決事件というのは実際その通りにあった事実である。店名も名前もそのままに物語として上演している。そうした実話物が流行っていたという。ちなみにこうした創作手法はアメリカでも戦後「ドキュメントノベル」として流行っている。で、実際のこの事件、近松より先に西鶴がこれを「好色五人女」に収めているらしい。つまり、現実の事件があり、それをもとに西鶴が小説化し、さらに今度は近松が浄瑠璃として書き換えたということだ。そしてそれから250年近くを経て依田義賢が映画シナリオに脚色し溝口映画となったわけだ。
それぞれ作家が物語を微妙に変えている。小説、浄瑠璃、映画という表現メディアは異なるが、それぞれ作家のストーリーテラーとしてのオリジナリティが発揮されている。
そもそも主人の妻おさんと手代茂兵衛の密通、性関係だが、西鶴近松とも先に恋情があったわけではなく偶然に言わばアクシデントとして一緒に寝てしまい、やってしまうというのが最初のきっかけとされている。実際の事件は分からぬ。現代から見たら唐突すぎて不自然に思われるのだが、こうした思いがけず相手を取り違えてセックスしてしまうというとっかかりこそが当時の庶民にはリアルな興奮ポイントであったのかもしれない。そのキッカケだったからこその劇的逃避行ドラマだったのではないか。そういう気がする。溝口映画のシナリオ作家依田は、この部分を、アクシデントで深夜一間に二人が出くわすだけで実際にセックスに至ってはいないが関係を誤解され追われるとしている。その逃避行は表向き身分違いの主従関係を動機とする行動とされる。そして二人身投げしようとした最後の間際に男が実は…と秘めてきた恋慕をカミングアウトし、そこからが二人の激烈な恋愛物語となる。小舟の上で男の告白を受け、女は死への覚悟が萎えて生への執着が立ちどころに溢れる。そのまま船上でセックスになだれ込んでいった様子がほのめかされる。圧巻のシーン。現代の恋愛観、性意識に合わせて、感情移入しやすい関係性と展開にアレンジし一級の悲恋譚へと昇華させている。
原作の脚色はとても難しい。しかしオリジナルの脚本を生み出すのも大変なわざだ。作家稼業の天才的先人の剛腕には感嘆する。
そして近松の浄瑠璃本だが、これは口上である。全編、文楽人形が演じられる脇でそのセリフ、解説をすべて一人で語る「大夫」のための台本である。だから、言葉がとても美しく、またそのリズムや韻が鮮やかな名調子である。ひところ、声に出して読みたい日本語というものが流行ったが、まさにそのための日本語だ。意味がわからないのについすらすらと台本をなぞってしまうのはそのせいだ。この文章言葉韻律の美しさにはうっとりとしてしまう。能の謡本も美しいが、それぞれシテワキツレのセリフと地謡のコーラスそれぞれ分かれている。文楽の大夫は一人語りだ。日本のサイレント時代に映画弁士という語り手が生まれたのは文楽大夫の形態をルーツとするとも言われている。面白い。
それにしても、言葉が美しくまたその響き韻律も美しいというのは一つの最高峰だ。憧れる。
ただ、やはりテーマにしても全体の雰囲気にしても、やはり僕は能が好きだ。それは変わらない。しかし人形浄瑠璃、文楽は一度見てみたい。来月大阪の文楽劇場で上演がある。能に比べるとずっと安い(^^)v。行ってみたい。