考えない社会
仙谷由人が死去したと報じられた。
その名を聞いて思い出したのは、自衛隊のことを「暴力装置」と呼び、国会で問題となったことだ。当時野党だった自民党の確か片山さつきあたりが隊員やその家族を愚弄する発言と大反発した。
暴力装置という概念を国会議員が知らないことに当時驚いた。社会学、政治学においては当たり前のイロハのはずである。ここで言う「暴力」とはドイツ語のgewaltで、物理力、有形力とも訳されるもので、例えば三浦つとむは「実力」と言い換えるべきと述べていた。法秩序を社会に維持するための担保としての強制力という権力作用を述べたに過ぎない。つまり、警察官の逮捕という行為は、私人間で行われたら強要暴行監禁にあたる行為である。それが犯罪に問われないのは憲法、法律で許され、その執行を法規範から期待され命じられているからだ。それが「正しい」からではない。だから、自衛隊、警察、入管職員その他公安職員は、憲法と関連法規で認められる有形力を行使する公権力作用の部署であり、それは国権の暴力装置なのである。そこには何も否定的なニュアンスなどない。だから、愚弄もへったくれもない。
確かに「暴力」と言えば何か犯罪めいたニュアンスが醸し出されるし、さらに「装置」と続ければ人間的な情感を否定した気配が増す。仙谷由人は弁護士であるから、つい社会学用語をポロリと口にしたのだろうが、確かにその本来の意味合いを共有されていない場では誤解を与える語用であったかもしれない。しかし、それを取り上げヒステリックに情で非難する風潮は嫌だと思った。これは精神科医である国会議員が例えば幼児について肛門期とか男根期などと国会でつい述べてしまい、かわいい子供たちを下品な言葉で侮辱したと言って非難されるようなものだ。あほらしい。国会が国権の最高機関ならば、あらゆる知見を基盤とする場であってほしい。それを専門用語の一般的響きが問題になるなど情けない。
戦争での目的は敵の殺害である。一人殺せば犯罪者だが、100人殺せば英雄になれる、といったのはチャップリンだが、戦争における殺人がどのように正当化されるかという問題は、社会的正当性にとどまらず、当該実行者においてどのように内心で自身の体験を受け止めるかという人類史上解決しえていない重い問いにもつながる。それは何十年何百年かけても、問い続けるしかないまさに深い主題だ。肯定か否定か。賛成か反対か。敵か味方か。そうではない。1ミリでも前に進めるために検討し続けることだ。
その課題にただ感情や情緒によって向かい、問い考えることを放棄する社会は退廃する。時代は転落して行く。もし、「暴力装置」とは単に社会学の基礎概念の用語に過ぎず、そこに否定的に対象を嘲る意味など含まないことを知りつつ、それを奇貨として本義を無視し社会を下支えする人々の辛苦に唾吐く暴言だと大衆を煽った対立政治家たちがあったとすれば(あったと思う)、政治の自壊劣化も甚だしい。議論の機会を政局に貶める政治屋の振る舞いだ。そして案の定というか、社会も政治も以来はっきりとそうした「考えない社会」「議論のない政治」へと加速度的に瓦解への道を辿っている。
仙谷由人の死にそのことを思い出した。確か仙谷由人は発言を訂正し謝罪した記憶がある。どうして釈明しないのかと当時思ったが、情緒的な反発に対してそうした釈明は無力でむしろ逆効果であると思ったのだろうか。それとも馬鹿馬鹿しくて面倒だと投げ出したい思いがあったのか、今となってはもうわからない。苦々しく想起する。