劇団男魂(メンソウル)-「髭王」2018
もう10月。地震だ、酷暑だ、台風だ。そして雨だ、また台風だ。そう言っている間に、朝夕すっかり肌寒い。当たり前だ。もう10月。もう10月なのだから。
昨日、東京から帰ってきた。日曜から木曜までだから、五日間東京にいたことになる。最後の夜、劇団男魂(メンソウル)の定期公演を観劇した。やはりいい。愛すべきダメ男、という表現だが、それは僕に言わせれば、光と闇のことだ。そのどちらをも宿している広大さと深淵のことだ。だからコントラストが信じられる。暖かい安らぎと凍るような戦慄。強靭さと脆さ。敬虔な真摯さと狡猾な卑劣さ。一見、並び立つはずのない矛盾がそこに併存している、否応なく。重厚さと軽妙さ。正論と奇説。計算高さと無軌道さ。シリアスと茶化し。まるで漆黒の闇に走る稲妻の閃光のよう。それらひっくるめて、聖性と邪悪さと言い換えていい。だから信用できるのだ。安心していい。僕はそう思う。
しかしそれは僕の偏狭な嗜好かもしれない。メンソウルはメンソウルだ。僕は言葉を使って物語を紡ぐ。俳優は自分自身の肉体と声を使って表現する。それは凄いことだ。心理療法で「関与観察」という言葉がある。自らをその関係性に投げ入れ直接に「関与」しながらも、まさに当事者として参画している自分自身とその場面を突き放した自分が冷徹に「観察」するのだ。これは、自分の精神が我を忘れてその場を生きながら、同時に覚め切った自分がそれを眺めているという図でもある。観察に偏ると関与が中途半端で及び腰になるし、関与に呑まれると観察などという余裕はまったくなくなる。そのダブルバインドに自ら向かうのだ。それは心理療法家に限らず、優れた精神的境涯としてひとつの到達点ですらある。自分を道具にすることのできる境地なのだ。そして俳優はまさに自分を表現のツールとし、おのれが表現のメソッドそのものでもある。
精神がある世界に入ると帰ってこれないことがある。俳優はまさにそこをくぐり抜けることになる。危険に満ちた回廊だが、そこを深めることはまさに人間の深淵と至高の業だ。心から畏敬する。