溝口健二-「近松物語」1954
「近松物語」を観た。短い間に二回も見た。近松門左衛門の浄瑠璃「大経師昔暦」の溝口健二監督による映画化である。素晴らしかった。とても深く強い感銘を受けた。
ちょうどその前に新藤兼人によるドキュメンタリー映画「ある映画監督の生涯-溝口健二」を見て、出演した俳優、制作陣のインタビューから興味を惹かれ、観てみたのだ。魅惑された。すでに溝口映画では「雨月物語」「山椒大夫」の圧倒的な美に参っていたが、「赤線地帯」や「雪夫人-」「武蔵野夫人」「お遊さま」など現代劇に強い感動は得ていない。そもそも「近松」だの「西鶴」だのと言った近世の物語にはこれまでまったく食指が動かず素通りしてきた。上方人情ものと言われてもピンとこない。何か湿っぽいしがらみが連想され、鬱陶しい。それがこれまで「近松物語」をシナリオまで入手しながら映画を見てこなかった理由だ。
ストーリーはまさに「悲恋」物語だ。前にも書いた通り、恋愛映画はどちらかといえば敬遠してきた。あまり感情移入できない。それなのに「近松-」には自分で驚くほど心動かされた。もちろん、映画セット、美術のすさまじいまでのリアリティと俳優陣の身のこなしから語り方や表情まで完璧な演技と演出といった溝口映画らしい比類ない完成度を誇っているのは前提だ。それは「雨月-」や「山椒-」と同様だ。それに加えてこの映画が持っている力は、徹底的な破壊力を持つ恋情に対するためらいない憧憬にある。
妻の不義密通には死罪を以って報いるという当時の社会制度は、それを支える当時社会に広く共有された善悪観、価値観を基としている。
旦那(今で言えば、社長か)はお女中(住み込み従業員)の寝屋に夜な夜な忍び込んでは、嫌がる女中を弄んでは妾(専用の愛人)になれと助平顔で迫っている。それは問われない。一方、その妻(社長夫人、副社長)は経緯あって実直有能な手代(社員)と出奔する羽目になり、追い詰められ今わの際で、互いに秘してきた相手への恋慕を明かし、燃え上がる。ここではっきりと二人は重罪人となり、追われる身となる。そのように「夫(男)」と「妻(女)」で、求められる「貞操義務」がまったく異なるという理不尽に、映画はストーリーを以って怒りを表明している。
だけではない。「連座制」の因襲についてだ。「不義密通」の妻を出した「家」は「お取り潰し」になる。その経済力で武家(政治家)や公家方にまで力を持ち、この世の春を謳歌していた大商人(大企業)が、一日にして商店(会社)を解散させられ、旦那(社長)は京都から「追放」の刑罰を受ける。代々の老舗を守る夫が怖れるのはこの一点だ。最後まで「不義密通」を隠し通そうと画策する。帰ってくれば妻を迎えるというが、それは家(会社)を守るためであり、その証拠に、まだ妻が実際には手代とねんごろになるより前であるのに、誤解を与える不祥事を隠ぺいするために、また嫌がるお女中(従業員)を無理矢理手篭めにしていることを知ってなじる妻をうるさがって、なんの罪もない妻に自害せよと迫っている。
また、二人が手代の実家にようやく逃げ延びたとき、貧しい小作人である父は自らにも刑罰が及ぶため助けを求める息子を拒絶する。しかし父は息子を助けたいのである。結局小屋に二人を一夜だけとかくまい翌日の弁当まで用意する。しかし翌朝追求の手が及び、ここで捕縛側は、罰はその父親だけでなく「村全体」に及び、責めを負うのだと脅迫する。父親は屈して二人の隠れ場を明かしてしまう。しかし、さらに葛藤する。一人縛り上げられた息子をののしりながら、罰がおのれにも、村全体に及ぶことも承知しつつ、息子を逃してやるのだ。ここでは、「連帯責任」を以って「圧力」をかける、日本型全体主義のエッセンスがこれでもかと明かされる。集団の圧力が個人を縛る、そのまさにひな形である。
つまり、二人の恋情は、夫の家、夫の会社、妻の実家を破壊し、夫の実家と、その村人までに罰を与える結果となる。だから、周囲の者は二人に「そんな怖ろしいこと、できるわけがない」と口々にたしなめる。常識ではまさに「怖ろしい」あってはならない禁忌、タブーなのだ。倫理に基づく価値観とむき出しの社会的制裁が合体しているのだ。
だから、まさに恋情の破壊力と言えるのだ。二人は刑死しても覚悟の上なら満足であろうが、周囲に「二人のせいで不幸に突き落とされる多くの人々」が生まれるという、まさに愚行であり「怖ろしい」極悪人というわけだ。映画は最後、縄で縛られ一頭の馬上に、二人それぞれさらされて、引き回され刑場に向かう情景で終わる。背中合わせに接し合い、決して離すまいと互いに手を固くつないでいる。かつての同僚が二人の姿を見てつぶやく。あんなに明るく、せいせいした顔の二人は見たこともない。つまり、映画は、「多くの犠牲者を出した二人の勝手な激情」にYESと告げて幕を閉じる。圧巻だ。
これは、近松のテイストかもしれない。浄瑠璃では有名な演目らしい。ぜひ、文楽で観てみたいと思った。
ところで、これをそのまま現代の不倫物語に移植しても、月並みで陳腐な物語にとどまるのが落ちだ。それは「不義密通」がそれほどのタブーではなくなっており、つまり破壊力を失っているからだ。死刑に処せられるほどの禁忌。匹敵するのは狂信的愛国風土を犯す通謀行為か皇室に対する例えば虹作戦のような不敬テロくらいしか思い浮かばない。しかしそれらは、吉本の言う共同幻想内の衝突に過ぎない。互いに社会関係の中で反感をぶつけ合っているだけだ。不義密通はまさに社会関係に対して両立し得ない二者関係、対幻想であるがゆえに、そもそも社会にとって脅威なのだという側面がある。まったくその意図なくとも二者関係のありようそのものが、社会の神経を逆撫でし逆上させる。二者関係、対幻想の持つ力は現在も有効なはずである。
そして、あと印象に強く残ったことひとつ。香川京子演じるおさんの美しさだ。おさん演じた香川京子の美しさではない。役柄のおさんに俳優は溶け込み消えている。それを演技と忘れるほど、それを役柄と忘れるほど、ただそのような人を目にしているという圧倒的リアリティ。その美しさにほれぼれとした。また、長谷川一夫演じる茂兵衛(もへえ)との間で燃え上がらせるいわゆるラブシーン。それはむしろ「濡れ場」と言いたくなるほど、むせかえるように恋情がほとばしっている。なんとその演出や美術で参考にされたのは、浮世絵の春画だという。なるほど、圧巻なのはいずれも「力の限り二人が抱き合う」シーンだ。抱擁なんて生ぬるいものではない。肉体が二つに分かれているのが耐えられないと言わんばかりに、一体になってまさにくんずほぐれず抱きしめ合う。その抱き合い方は確かに春画っぽい。その漂う色香は強烈だ。
また、特に印象に残ったシーンは、有名な船上の告白シーン。まさにこれから身を投げんとするとき、乱れぬようおさんの足を着物の上から縛りながら、茂兵衛がこの世に思い残さぬよう、それまで秘めていた恋心を初めて打ち明ける。そのとき彼が抱きしめるのは、おさんの足だ。あまりに身分の違う禁断の恋慕だとよくわかる。それから、今度はおさんの方が封印して来た想い爆発させ、茂兵衛を押し倒すように抱きつく。
さらに、もうひとつ印象的シーン。おさんをかばい自らお縄につこうと、茂兵衛はおさんを残し一人山道を駆け下りる。残されたことに気づいたおさんは、挫いた足を引きずりながら必死に追いかける。茂兵衛!茂兵衛!とその名を叫びながら、痛みも顧みずつまずきながら追いかけるおさん。そして到頭頭から転倒するおさんに、山道の傍らに身を隠していた茂兵衛がたまらず駆け寄る。バカと泣きながら打つおさんに対し、茂兵衛はおさんの痛みをいたわって、その裸足の足を撫でて口づけて頬ずりする。奉公人としておさんを想って我が身を捨てようとした茂兵衛に対し、おさんは「お前はもう奉公人やない。私の夫や。私の御主人様や!」と叫び、茂兵衛は打ちのめされる。もう二度と離れないと、二人は上になり下になり泣きながら抱きしめ合う。
つまり、二つのシーンとも、男が這いつくばって女の足を愛撫するのだ。おさんは気優しい気品のある女性なのでサディズムの気配はないが、茂兵衛の振る舞いはマゾヒスティックな倒錯愛のそのままだ。ひざまづいて足をお舐め、の構図。
あからさまに示してはいないが、身分高い女に対する身分低い男の恋情は、構造的にマゾヒズムの妖しい気配を漂わせている。
この映画には一切肌の露出はない。それなのに全体から香り立つ得も言われぬ豊潤な色香はすさまじい。このあたり、色気に乏しい黒澤には真似ができない。溝口の真骨頂だ。
書き出せばきりがない。まだまだ書きたくなる映画だ。まだ「西鶴一代女」を見ていない。楽しみをずっととっておきたくなるが、近いうちに観たい。一度恋愛物語を書いてみたいが、やはり無理だろうな。憧れる。