中島貞夫監督-「多十郎殉愛記」2018
困った。10/14劇団メンソウル定期公演を観に東京へ行く予定だったが、ちょうどこの日京都国際映画祭で中島監督の「多十郎殉愛記」がプレミア上映されることになった。先日、シナリオ塾で監督と脚本家の谷さんから聞き、その場で気軽に「行きますよ!」と答えたのだが、メンソウルの公演と重なっていることに後で気がついた。聞いてはいなかったのが、「多十郎殉愛記」は監督と谷さんの共同脚本とクレジットされている。これはやはりなんとしても行かねばならない。メンソウル公演は14日が千秋楽なので、その前に行くしかない。いろいろと調整が必要。大丈夫だろうか。
先日、中島監督から脚本の指導を受けた。もう三年目なので僕の作風も実力の具合も十分わかってもらっているので、こちらも監督の前でええかっこしようと無理することもしないし、指摘にへこむこともない。ひたすら監督から吸収し学びたいから一言も聞き漏らすまいとするだけ。監督はざっくばらんとした方で偉ぶったところなど全くない。僕ごときにもとても丁寧で、ときに過分なほどほめてくださる。本当にうれしい。監督の指導ぶりは一貫している。当たり前ではあるが「どうしたらもっといい(面白い)脚本になるか」という一点だ。その場でアイデアも探るし、質問やサジェスチョンもその一点に尽きる。そういう指導は実はとても得難い。長く芸大等で後進の指導に尽くされてきた監督なればこそ。指導者としても、人格像も敬愛せずにおれない。すばらしい。
昨年は僕が書いた脚本のエンディングについてフェリーニの「道」を引き合いに出してくださり、自分では言われるまでまったくその類似に気づいていなかったので、なるほどなあと頭をめぐらせることになった。今回は僕が脇役のつもりで書いた人物について、観る側からはとても魅力的で気になって仕方ない、そちらを主人公としてきちんと描いてみたらどうかと指摘いただいた。そもそもの時点で僕の見込み違い。ここが小説と映画の違いでもある。舞台と同じで主役はとにもかくにも観客を惹きつける存在でなければならない。書く方はどのように見えるか、なかなかわからないもの。ひとつまた勉強した。そしてある習作について、そのプロットから連想されるギリシャ悲劇の「オイデュプス」を例に、観客が「面白い」と感じる要素について提示された。罪や悪といった闇。「人間の悪を描くことができなかったら、作家をやめた方がいい」とは監督の言葉だ。前に、中上健次の弟子にあたる作家の方から聞いた話なのだが、新人時代中上から「今度は徹底的に悪を描け」と促され、とても苦しみながらも、その鍛錬によって作家としての一歩を進めることができたという、そのエピソードを思い出した。監督は「冷徹に人間を見つめることができなければいい作家(脚本家)にはなれない」とおっしゃる。スタートラインだと噛み締める。見つめる力。
僕がドストエフスキーにあこがれるのも、その登場人物の際立った人間深層の凄みある描きぶりだ。人間の嫌らしさ、ずるさ、卑怯さ、傲慢さ、非道さ、悪辣さ、その極みを描き出す中に、圧倒されるほどに極まった目も眩むほどの人間の聖性を描きだす凄まじいまでの強烈なコントラスト。まさに超越的だ。「地獄の底に差す天上の光」それがドスト作品。人が描ける善も悪も通常は卑小なもの。つまり、自分という大きさに見合ったこじんまりとしたものだから。それを筆先から、人間一般の広大無辺な深部の光と闇を描写する、まさに人間業ではない。
話は離れるが、昨年だったか、サンカに関心がわき、様々な書籍を購入して調べたことがあった。五木寛之から三角寛まで資料を集めた。調べる中で、もしかしてサンカを主題とした映画はないだろうかと調べてみた。一作だけあった。それは中島貞夫監督の映画だった。一人、声を上げたいほど感嘆した。
「多十郎殉愛記」は監督と谷さんの共同脚本だ。勝手に僕はお二人を脚本の師匠と思っているので、とてもうれしい。楽しみだ。谷さんは城戸賞準入賞されている。同時入選が「のぼうの城」なのでタイミングで損している。凄い人。そのたび励まされているので、ますます僕も努めねばと思う。応えたい。