夏
じりじりと蝉の声が幾重にも重なって響くようになれば、もう夕暮れのひぐらしに夏が終わる寂寥を早くも思い浮かべ悲観する。例えば連なる休みが始まったばかりなのに、まもなく休みは終わりなのだと何もできなくなるように。その、早すぎる諦めの心癖はいつから心に根付いたのだろう。素直に喜べない心情は過度な喜びの裏返しである。あまりにうれしく実は有頂天な歓喜なのだ。だから、それを喪失するダメージはあまりに大きく想像するだに怖ろしく、心はあらかじめ覚悟していようと幼稚な企みにむなしく徒労する。
だから夏への諦めは、張り裂けんばかりの夏に対する哀惜の表現でもある。
今年は例年に記録のない異常に高温な日が続いているが、まだようやく八月になったばかりだ。猛暑にあえば早くもその終わりを悲観する心の習いは戸惑う。あまりに早く酷暑が続き、またその猛威が依然ひるむ様子が見えないからだ。
ならば例年にない仕方で、今年は夏を体験できるのではないか。身体と世界を通して心がいつもにない夏を体験できるかとおずおず期待している。
先日、テレビで高校野球の歴史をたどる番組を観た。高校野球にはまったくと言っていいほど関心がない。しかし、番組の映像にひどく心が動いた。それは1974年の記録だ。鹿児島実業高校の定岡。あの夏がこんなに人生に深い痕跡を残すなど想像すらしなかった。それは翌年の自分自身すらまったく想像できないエッジに追い詰められていたのであるから当然でもある。吹上浜という砂丘の海辺で友人らとキャンプをした。そして夏の終わり近く、一人で桜島にフェリーで渡り、容赦なく照りつける陽光の下で溶岩の陰に隠れ、破滅的な酩酊に浸っていた。ラジオが興奮して語る定岡という名をキャンプ地で繰り返し耳にした夏だ。あの苛烈さを四十四年後に生々しく想起する。忘れがたいその友人らとは、もう二度と会うこともない。あの夏ふらふらと桜島埠頭に一人降り立ったように、あらかじめ人は一人だと証するように。
潮はみち
押し寄せるひと波ごとに
足もとの砂が洗われ
崩れてゆく
にがく
あまい喪失感
少年たちの頭上に
さんさんと
夏の光はふりそそぐ
そこには
何かが
失われてゆく何かの
なまなましい感触が
あった
(黒田三郎「足もとの砂」抄)
失われゆくものの、苦く甘い喪失感。それが夏である。その夏を年老いて、体験しようというのだ。蝉が泣いている。