「冬の華」
先月だったか、健さん降旗監督コンビの「冬の華」を観た。相当以前に一度観たきり、2度見ることはなかった映画だ。なんなのだろう、「夜叉」とか「駅」とかと違う、どこかむずがゆい違和感のような、気恥ずかしさのようなぬるい印象が残っていて、そのために敬遠してきた気がする。甘い、砂糖のように甘い感じ。
それを意識して、映画を観た。確かに健さんは言うまでもない存在感だし、池上季実子の昭和美少女振りは見事。小林稔侍はじめ脇役も申し分ない。
多分、違和感の正体はエンディングの処し方だ。
主人公はヤクザから足を洗おうと決め、刑務所で世話になった課長に手紙を書き、あとは投函するだけであった。しかし、切手を貼ったその封筒を破り捨て、彼は親分を殺し組を敵方に売った者たちを殺る。多分、クロードチアリの哀愁アルペジオやセーラー服の池上季実子が口にする「おじさま」という声の可憐な響きが良くないのだ。最後の健さんの振る舞いを、選択を、美しいものにしてしまっている。それが、何か僕に受け入れがたいものにさせている気がする。
例えば「竜二」だと、ヤクザ稼業が嫌になりせっかく堅気になったのにまた極道に戻ってしまう。バックに流れるのは、気取ったショーケンのいなせな歌だ。馬鹿だと笑い飛ばしつつシンパシーを秘かに隠す。痛快だ。その痛快さはファンタジー故の痛快さだ。
そもそもヤクザなんてファンタジーでないと見れたもんじゃない。平然と脅しや暴力、搾取で人を恐怖から死に追い込み、無垢な少女を輪姦して楽しむメンタリティと行動様式を身につけている。
ファンタジーは非現実が前提だ。言わばパラレルワールドの架空世界だ。だから普段潜在させている欲求に解放もさせられる。
「冬の華」は「美談」すぎる。結局、最後は人殺しだ。それならファンタジーにして欲しい。リアルな人情劇になんかしないで欲しい。種類は違うかもしれないが、僕には不本意ながらやむなく戦争に身を投じる日本人の「美学」に似た倒錯、つまり自己正当化、美化、ナルシズムと変わらぬものを感じる。
不本意ながらやむなく身を投じる、それを美しい悲劇とは言いたくない。むしろ「ただの自己愛じゃねぇか」と言い放っていいのだ、きっと。巧妙な集団的自己正当化なのだ。同じメンタリティが、容赦なく平然と他を苛み存在を抹消しようとするのではないか。
全体主義は、内に全体の統一を強制し、外には決定的な排除と否定を投げつける分断主義に他ならない。つまるところ国の戦争も、組の義理でやむなく敵を殺すのと変わらない。
健さんは前刑の殺人による服役から出所して数ヶ月で、再び殺人を犯した。物語はそれで終わるが、健さんはこれからその後始末を自分でせねばならい。美化できるものは何もない。彼の止むに止まれぬ事情は組内部でのみ了解できる一方の勝手言い分に過ぎない。敵には敵のやむなき事情もある。
ひどく精神的な徒労感を覚える。これが日本人のメンタリティなのだ。僕の中にも根深く巣食っている自己正当化、倒錯的自己愛。倉本聰がこの物語を書いたのはよくこのメンタリティが日本大衆の心を動かすことを知っていたからだろう。
「冬の華」のなんとも言えない「嫌な感じ」はおそらくそうだ。自分の中のそういう自己愛、自己正当化のメンタリティを引き出されてしまうからなのだ。もっとその正体を暴きたい。