物語
物語作りについて。
まずリアリティは当然の前提。かもし出される現実感の力は土俵でありステージ。人物であれば、それこそその体臭や息遣いが、場所であればその空気感とか湿り気であるとか、それを直裁に記さなくても直に伝わるような筆力。それには構想の熟成が必須だ。最初雲をつかむように曖昧でも、背景や言葉や事物の受け止め方行動の仕方を練るうちに、そういう人物が現実に生きていて、その人をとてもよく知っているような感覚になる。もちろんその場所のことを調べるし、必然が常に働いているリアル感だ。その人生や事件に自分が確かに立ち会っているように当たり前に感ぜられるようになれば、あとは書きあらわす構成だけだ。もうその人や場所を「よく知っている」ので、描くことはできる。
そして闇の書き方。苦悩とは闇だ。生きてあることは苦境や辛酸であるから、その理不尽で不条理とも見える過酷な現実をきちんと描くこと。しかしこれは現実の事実の客観状況とそれを体験する人物それぞれの主観的認知の仕方とセットで生じるもの。だから人物なりの様々な認知のあり方を知っていなければ、ステレオタイプの空虚な人物像を登場させてしまうことになる。
吉行淳之介が「詩は自分を知っていたら書けるが、小説は人間を知らないと書けない」と言ったのはこの意味でもあると思う。
主人公の主観世界の一方的な解釈で描かれる物語は小児的だ。踊るとかheroだとかを見ると、「悪役」の奴らは、全く理解不能で一点の同情の余地もないダメで嫌な奴だと切り捨てられた架空の人格と描かれていることがある。ショッカー軍団と変わらない。要は主人公の主観世界の引き立て役であり、効果音に過ぎない。自国を美化し正当化するために、他国を際限なく貶めるあのパターンだ。いい大人がああいう物語に興奮しているのを見ると、私は自分の見方に拘泥して自分とは違うものの見方考え方を許容することができない幼稚な人格です、と自ら表明しているのを見せられているようで恥ずかしくなる。
自分の主観世界を生きるのは当たり前だが、人と生きている限り、人には人の主観世界があることはこの世を生きるいろはのい。その錯綜を承知できないなら物語など描けない。ドストエフスキーの凄まじさのわけは、一つの現実世界をそれぞれの人物が個別の主観世界として生き体験している様相をそれぞれの目線のままで重層的にリアルタイムで描いているというそのど迫力なまでの筆力によっている。
物語は読者に、他者に触れ自分に触れる体験を差し出してくれるもの。だから、遠くに連れて行ってくれるものなのだ。
これは勝手な僕の物語論。物語を紡ぐ者としての備忘録に過ぎないが。
そして悲願は、単純だが闇を描いて、それに勝る光を描ききること。闇を描かないと光を書けない。ちゃちな闇ならちゃちな光しか書けない。そんな力のない光は光ですらない。そういう物語を自分で恥じる。そして漆黒のリアルな闇の深みに降りて行くと、もう自分の持っている光では太刀打ちできず、光は闇に敗北してしまう。だから、最後に闇に打ち克つ光を描けたらと、それが切願であり、作家の彼岸だ。
残りの人生でアリョーシャを描けるまでになんとかと思う。それがまもなく一年の区切りを超える今、思うことの一つだ。