江戸時代幻想

BSで夜「鬼平犯科帳」をやっている。もともとの原作が絶品なのだろうが、脚本もキャスト(中村吉右衛門版)もとてもよくできていて楽しめる。
しかし時代劇といえばやはりたいがいは「江戸の話」であり、「武士町人」の物語だ。江戸時代、日本の治安衛生の良さは世界的にも驚愕すべき高水準で、また自然と共生した歴史上稀なエコで平和な社会であったという評価をよく目にする。バカな、と思う。これも物語士たちの罪に見える。

たとえば、
「このころ奥州各地で不審な出火がつづいたが、それは飢えに追いつめられた窮民たちの最後の反抗であった。『飢歳凌鑑』によると天明三年(一七八三)の十二月のある日、五戸在犬落瀬村に細民、乞食がより集まって、力なく今日の食物のことを思いわずらっていたが、そのうちになかの一人の苫辺地甚九郎という男が、
『どうせすぐに死ぬ身だ、おそろしいものは何もないぞ』
と叫んだことから、彼らの憤懣にたちまち暴動の火をつけた。連中は口々に、
『首尾よくいったら一生の晴れの日だ』
と、わめきあいながら、甚九郎を大将におしたてて騒動をおこした。どこから探してきたのか、思い思いの得物をさげ、てんでに適当なもので身を固めた細民、乞食たちは、あちこちの村をおそっては火をつけ、金銭、器物、雑穀など、あるものは何でもぬすみとった。襲撃しない村でも鉄砲をうちこんでかけあえば、たいてい思いのままになった。たいへんな騒動に逃げだす村も少なくなかった。しかしこの盗賊のむれは一人も殺人はおかさなかったそうである。
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だがこのことがすっかり町へも聞こえたので、お上から同心四人、至剛の捕り手二十人がさしむけられ、はかりごとを用いて一味二十七人をなんなく召し捕った。一味は町へ連行され、牢舎をおおせつけられたが、このことを知って知らぬ顔をしていた肝煎はじめ村一同にも罪があるとされ、その罰として牢番や牢舎のまかないをおおせつけられた。こうして村の者がかわるがわる守り勤めるうちに、牢舎のものはしだいしだいに衰弱し、翌四年の七月、盆の前までにさっぱりと死んでしまったそうである。大将の甚九郎だけはわけがあって別にひきとられ、内証のうちに焼き殺されたということである。ところで犬落瀬村では、ただでさえすごしにくい飢饉のときに、獄舎のまかないや勤めまで申し渡されたのだから。たまったものではなかった。百軒もあった家が、わずか十七軒ばかりになったそうである。
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このようにあまたの悲惨な話を残しながら、天明の飢饉は無慈悲に進行した。とくに災害が大きかったといわれる津軽藩では、人口のなかば以上にあたる八万千七百人が天明四年九月までに死んだ。東北地方全体では、『泰平年表』によると、天明三年十月から四年八月のあいだに、飢え死にしたもの十万二千人、病気で死んだもの三万人、他国へ移ったもの二万人、死絶または空家となった戸数は三万五千軒となっている。しかもこの飢饉は天明七年までつづくのであるから、被害の数字ももっと大きいものになるであろう。
すなわち天明五年の三月には大坂で大火があり、八月になると畿内および東海地方に洪水かあって、はなはだしい被害を残し、その他の土地は反対に大旱魃におそわれた。天明六年正月には、こんどは江戸で大火事がおこり、五月から雨が多く、七月には関東各地が大洪水になった。天明七年はそのあとをうけて、まったく生気ないまでにたたきのめされたのである。生産地帯における飢饉の惨状はすぐに都市に反映した。」
(「日本残酷物語1 貧しき人々のむれ」宮本常一他監修平凡社 初版1959)
一揆や蜂起した義民への弾圧は苛烈を極める。平和な江戸の風景というのもある一面ではあろうが、あくまで一面に過ぎない。なんにしろ事態を一面的にしか見ない言説は疑ってしかるべきだし、その決めつけや思い込みに心地よさを感ずるのは精神の退廃であると思う。