私はあなたを知らない
すっかりブログを書かなくなった。このブログ最後に記事を書き込んでからもう10か月がたっている。以前は勝手気まま、頻繁に書き込んでいたのにだ。理由ははっきりしている。このブログを読むであろう人たちがあらわれたからだ。
以前はおそらく誰の目にも触れぬだろうという開き直った気安さで思うまま、映画や小説など感想を書き連ね検討しては考察を楽しんでいた。だから私自身の嗜好をそのままに、決して一般化などされるはずもない半ば放言として、またごく個人的な省察として書いていた。書くことは検討すること。まさに書きながら検討し、書きながら深めていた。それはしんどくてもとても魅力的な個人的楽しみではあった。
それらはしかし投稿文芸誌を創刊するまでだ。数十年ぶりに声をかけた旧友と文学フリマで一度会ったきりの二人に声をかけ一昨年夏細々と創刊したが、その年二回目の銀華文学賞を受賞したこともあって、翌年には文藝年鑑に取り上げられ、新設の新同人雑誌賞まで受賞した。むろん世間や文学業界どころか同人雑誌界隈ですら知られた存在となったわけではない。しかしである。わずかといえども関心を持ってあるいは検索に導かれこのブログにたどりつくだろう人が想像されるようになった。
言葉は難儀である。とくにセンシティブな「書く者」たちは、ほんの小さなとげで心臓を射抜かれ、小さな水たまりですら溺れそうになるものだ。作品へのちょっとした助言のつもりが存在の全否定と受け止められ、それに気づき当惑して狼狽するがもう遅い。作品だけではない。その人が信奉する作家への批判を書いただけで手酷いダメージを与えることだってあるし、「あれは私に向けて書かれたのですね」などと思いもよらぬ受け止め方をされ心底驚いたりする。だから、もう勝手気ままな放言などできない。口をつぐみ沈黙するしかないのである。
何をことさらおおげさに構えているんだ。と苦笑されるかもしれない。しかし、触れられるだけでも痛みが走る「心のもっとも柔らかい場所」から文学を読み、そして書かずにおれない人の、深いところで切羽詰まった心情はよくわかる。
歳をとるとは厚かましく鈍感になることである。深く重層的によく知ったために自分さえも突き放しているためにそう見える場合もあるが、知ることをはなから放棄してなじむどころでなく惰性がそのまま人格へと変容することも多い。センシティブな若い人にとって、そうした鉄面皮は存在自体がひどく迷惑で近寄ってはならない危険な怪物だ。それはかつて私がそのように感じていた記憶が依然生々しく私の奥に残っているからだ。
ところで、或る作家や作品をくさしたいと、そういう思いに駆られることがある。以前ならここでさんざん皮肉めいた言い方で「ちげえだろ」と批判を書いただろうが、その作家の作品を生存の支えにしている人を想像すると、もう書けない。単に作家論、文学論であるなら立場を明らかにして議論を深めることも可能だろう。しかし、その作品にすがりどうにか日々を生きのびている人とは議論などできない。とにかく生きのびてほしい。それがすべてだからだ。
そして私が投稿文芸誌を創刊した理由もそこにある。生きるための文学。その一点だからである。
こういう裏話、内幕の類はあまり書くものではない。しかし書かねば再開できないと思われ、書くことにした。
できるだけ匿名の存在でフリーハンドを保持していたかったがもうそうもいかないようだ。とにもかくにもまたこのブログに書くようにしたい。
しかし、創作における立ち位置はまったく変わらない。具体的な読み手などまったく想定しない。ゴーストになって、ただ深淵にはまり込んで書くだけだ。
ここではさて何を書こうか。