ゴーゴリ「外套」1842

 ゴーゴリ「外套」を読んだ。これまでゴーゴリを読んだことはなかった。ゴーゴリだけではない。実はプーシキンもチェーホフも読んでいない。ロシア作家ならほぼドストエフスキーとトルストイしか読んでいないと言った方がいいかもしれない。ロシアに限らない。欧米の著名作家の作品もだ。十代に狂ったように読書に耽ったが、ほとんどが日本作品だったし自分の嗜好興味のみに従って読み漁ったために、森鴎外だの志賀直哉だの有名どころが読書歴からごっそり抜け落ちている。二十代以降はほとんど読んでいない。現実の方がはるかに凄まじく圧倒的だったからだ。たいがいのフィクションなど嘘くさく空虚すぎて、手に取る気にならなかった。そして多くの年寄りがそう思うように、若いときにえり好みせずもっと読んでおれば、と私も今さらながらにまた悔やむのである。
「外套」を手にとった理由は或る紹介文の一節だ。ドストエフスキーが「われわれは皆『外套』から生まれた」と評したというのである。俄然関心が湧き、早速図書館に出向き借りてきた。

 うだつの上がらぬ善良すぎる小役人アカーキイの描写はせつなくておかしい。その善良さは宮沢賢治の「虔十」を思い起させた。つまりそれははじめなんらかの葛藤や希求を抱えながらその果てに獲得され到達した善良さではなく、無辜ゆえの言わば生まれたままの愚かさが宿す善良さである。
 彼をからかいいじめ怒鳴り散らす者たちも、彼に反感や嫌悪を抱いているわけではない。むしろ愛してさえいる。少なくとも彼らはそう思っている。しかしたとえ彼らがアカーキイを思いやり、ときに同情を寄せたとしても、それは彼らの気が向いた時に限られるのだ。アカーキイ側の事情や境遇が、彼らの友愛を発動させるわけではない。あくまでも主導権は彼らにある。「気が向けば愛する」のだ。なぜ、かくも一方的な関係なのかと問えば、その理由は相手がアカーキイだからだ。アカーキイが彼らと等しい立場に立つことなどありえない。なぜなら、「あのアカーキイ」だからだ。それほどに、もとより存在の重要度、いわば評価額が彼らとアカーキイでは雲泥の差があるのだ。当たり前にはじめから彼は軽んじられる。それでもアカーキイは決して斥けられることはなく、体のいいいじられ役として重宝されている。つまり「無害」なのだ。彼は誰を傷つける能力も持ち合わせていない。それは稀有なことだ。比べる者ないほどに彼らにとってアカーキイは安全なのである。よもや彼から傷つけられ害を及ぼされるなど、誰ひとり想像だにしない。彼の善良さの正体はただ「無害」であることに尽きる。それが、彼らが自由に気が向いた時、彼に愛情そそぎたくなる理由だ。
 彼は虚しい死のあとでゴーストとなって人々を襲う。それは、彼が実は潜在的に攻撃性を無意識に溜めこんでいたせいと言えるかもしれない。しかしその目的は復讐ではない。ただただ外套を取り返したいだけだ。亡霊になってさえ、無害な善良さが顔を出している。哀しい話だ。しかし繰り返すが、人々は彼を注釈付きであれ、愛していたのである。これが二重に切ない所以だ。

 彼を善良と称してきたが、その善良さは何かしら他者を生かそうとする愛他的なものではない。それは誰をも傷つけないというに過ぎない。言ってしまえば、彼はただの愚鈍な下級役人でしかない。それでも作家の筆致には、彼に対する溢れんばかりのシンパシーがにじみ出ている。
 小心さが利己主義をまとうと姑息になる。彼はその手前で踏みとどまっている。彼は自分の無力を嘆きながらも受け入れているように見える。だから偽って有能ぶろうと策を弄することもない。自分をよく見せようとすることに慣れている者から見れば、無防備な彼を愚かだと軽んじながらもどこかで彼に嫉妬しているのではないか。それは憧れと言ってもよい。彼をからかい軽んずる差別の心情をさらに昂進させ、また逆に押しとどめようと抑制しているのが、この嫉妬と憧れなのかもしれない。
 それでもこの顛末は悲劇で終わる。愚かな善良さに悲劇で報いるのがこの時代なのだと言うように。

 先に記したように、のちの作家たちは「外套」から生まれたのだとまで言ってドストエフスキーが称賛したと伝えられる。しかし実のところその証言の根拠はあいまいだ。ドストエフスキーがそう書き残したものも、そう語るのを聞いたという記録もないらしい。しかし「外套」がおそらく強い印象をドストエフスキーに残しただろうことは容易に想像できる。
 愚かと言えば「白痴」のムイシュキンだ。しかし彼はれっきとした公爵であり、感受性に優れ行動的でもありまた多弁だ。アカーキイとはずいぶん異なる。それでも主題はたしかに連なっている。アカーキイは無害以上の者ではなかったが、ムイシュキンは愚かゆえに見出す真実に衝き動かされる者として描かれている。だからアカーキイに対して我々はその無自覚な振る舞いにひそかな嫉妬や羨望を呼び起こされるにとどまったが、ムイシュキンにおいては我々が保持している狡猾な秩序を揺さぶり、混乱とカオスに陥れてしまう。作家は私たちが何か「真面目に誤っている」ことを知らせているように思う。それは作家自身の思想というよりも、作家というシャーマンを通した、言わば啓示と言っていいのではないか。もしやそれは啓示というより、けたたましく轟いている警鐘のようにも思われるのである。果たしてどちらが愚かなのか。