書くということ  ~ 「文芸エム」創刊に寄せて

 書くとは、言葉に託し内なる形なきものを外に表す営みだ。つまり、まずそれは自分の内に潜むものを自分自身の眼前に突きつけることになる。書くことが、自分自身との思いがけない邂逅をもたらすことを作家や詩人は否応なく自覚している。
 その邂逅は至上の歓喜であるより、ひそかに慄然としてときに自失するほどの驚愕をもたらすこともある。そうした作家の「書く」という内的経験は、「読まれる」という他者への開示とは異なる次元で、常に作家に意識されるものだ。もし、そうした自身と作品の関係性を俯瞰することがないならば、書くことの醍醐味に触れていない不幸であり、しかしそれは幸福なことであるかもしれない。書くという行為は、そうした明かされることのない、ときに過酷な個人的秘事でもある。

 しかし書かれたものはひとたび言葉としてこの世に生まれ出るや、書き手のもとを離れ、その思惑をも無視して生き始める。勝手に歩きまわり、或いはうずくまり、ときに暴れ、また注目を集めもてはやされ、しまいには書き手に襲いかかることすらもある。作家は作品の母胎でありながらも、実は産婆に過ぎないからだ。作品はそもそも無意識の途方もないわだつみから立ち上がる。無意識は自他の境界を超えて融解している深層の有象無象である。だからはじめから作品は作家を超えており、その超越の度合いが豊かであればこそ優れた作家的資質の所以と言えるのかもしれない。未知の深淵から生まれいでる創造の魔術性に自ら圧倒されることこそ、作家の特権と言えるのではないか。

 それはことさらな概念小説を指しているわけではない。作家が自身の文学をとるに足らぬ手慰みに過ぎないと自ら語ったとしても、その見栄えがはりぼてであろうと壮麗であろうと関わりなく、出自の奇跡はおのずから現れずにはいないものだ。
 また、作家がただ自身の孤独を慰め承認賞賛の快楽に淫するため、あるいは明日の支払いに窮してただただ稿料を目当てに、文学をその道具として利用したにせよ、書き手のさもしい動機の貧困さとは関わりなく、作品はまったく独自に価値と輝きを自ら宿すものでもある。
 その一方で、作家が巧みに隠しおおせたつもりでいても、作家の抱く無自覚な価値観がおのずから現れるだけでなく、その品性や魂胆までを作品が否応なく暴き出してしまうことも避けがたいようだ。書くとは一切を晒す放棄でもあると覚悟した方がいい。

 そのはじまりは現実との相克だろうか。それとも予想だにしなかった大いなる恩寵が現実からの賜物として差し出されたのだろうか。この現実こそが、あまりにも不可解で理不尽で、人間に君臨し翻弄するまるで邪教の威神の如きでありつつ、それでもなおその凶悪な相貌の裏に、まるで目も眩む光芒と柔和の慈雨で言語に絶する抱擁と救済をもたらす圧倒的歓喜の法悦の源でもあるからだ。現実日常に潜む光闇の有り得ない同時屹立に撃たれた者は、書かずにおれるだろうか。またそれは映し鏡のように人間も同様だ。愚かしくも尊厳を孕み、下劣でありながら崇高でありうる人間という、どれほどに描き連ねても描き切れないその無辺さはたとえようもなく圧倒的だ。その尽きることない関心を掻き立てやまない、世界と人間。もう勘弁してくれと逃げ出しても、やがていつか引き寄せられ、憎悪しつつも魅惑される世界と人間の現実こそが、永遠に渡る主題の主題である。

 書くことに憑かれた者は、そうして書くことで生き延びるのだ。書くことでようやくその一日一日を生きながらえることができるのだ。いかなるものを以ってしてもその者を生かしめることかなわないのに、書くというただそのことだけが生存することを彼に許すのだ。書くという営みが秘めるなんという驚異。そして書くことを自らの業とする者たちの辿る隘路。ならば、その作品を読むことでようやく一日を生き延びる者がもしやどこかにあるかもしれないと、彼らがそう心馳せることも許されはしないだろうか。

 この砦において、書くことの真髄はあまりに深く秘され、遂に発現を果たせず潰えるかもしれない。それでもここに、言葉と自身と人を結ぶ懸命の場が現れんことの切願をひそかに告げるのである。書くということ。生きるのである。

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「文芸エム」2020年7月創刊予定
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