読むということ ~ 「文芸エム」創刊に寄せて

 人生の岐路で胎にずんと来る小説と出会った人は多い。たとえば、それまでならば当てにし頼りにしていた人の言葉が、どうしてなのかまったく心に届いてこない。気がついたらどこにも明かりや支えが見当たらない。そんなとき、何気なく手にした文庫を開き、綴られたその文学を読んでみた。いつのまにか思いもよらず引き込まれてしまっている。まるで現実に場面を目撃し、それを体験しているかのよう。時間を忘れ、のめり込むように、その物語世界を旅している。そして最後の頁を閉じるや、どうだろう。目にする世界が、どこか違って見えている。人を、世界を見る眼差しが変わってしまったのだ。もはや、物語を読む以前の自分には、到底戻れそうもない。ただ言葉で紡がれただけの一片の文学が、私を、私の人生を動かしてしまう。そういう体験をした人は少なくない。そういう読書体験。文学の底知れぬ不可思議な力。それこそが文学のいのちそのものでなかったか。

 そんなに肩肘張らなくても、という声も聞こえる。小説なんて、たかがただの作り話だ。間違いない。読む側は好き勝手、気の向くままに本を手に取ればいいだけだ。何をどう読もうが、他人から指図されるいわれはない。そのとおりだ。
 心地よい暇つぶしのためなら、むろんいっとう気持ちいい暇つぶしを選べばいい。何がしか飢えた退屈を満たし鬱憤を晴らしたいのなら、その欠損をぴたりと埋めるにふさわしいピースを選べばいいだけだ。
 そして今まで自分が信じた感じ方振る舞い方にちょっとしたもの足りなさを覚えたとき、或いは、慣れた日常に何かしら窮屈さを感じ、別の感じ眺め方があるのだろうかとふと思うとき、そして世界や自分をいっそ刷新してみたくなったとき、読むという体験は、まさにそのための門を大きく開くのである。

 もちろん何かを読んで、外の現実世界が変わるわけなどない。突然借金が減るわけもなければ、不相応な美青年から思いもかけず熱い告白を受けるわけでもない。変わるのは読む者自身だからだ。もちろん観念の体験はただ観念の体験でしかない。しかしそれは不可逆な大変容の序曲なのだ。尻ごんで退くも自由だが、巨大な鉄扉を押し開くことも許されてしまうのだ。新しい眼差し、洞察、態度、エナジー。それら自分自身が変わることがもたらす、なんという凄まじい世界変容。新しい自分は古い現実に分け入って、外界の現実をも改編せずにいないのだ。ただ外界の現実のみがいっとき変わることよりも、遥かに芯の確かな革命ではないか。文学を読むことによるメタモルフォーゼは、内と外をまたぐ転覆そのものすらもたらす。

 しかし、である。文学との出会いもまたひとつのマッチングだ。たとえ話題よんでいる評判の作品だからといって、その作品が必ずしも心に叶うわけでもない。作品に絶対的な評価基準などない。人の悲しみの大きさを比較することが不可能なように、実は作品の優劣を判定することなど不可能なのだ。もちろん一定のレベルに達していることは前提だが。読む側の個人にとって、文学も音楽もさほど変わらない。
 発行部数やダウンロード数など数値化できるデータであれば比較も可能だ。また、作品の正統性や革新性、技術的な巧拙という一般的な評価は可能だろう。しかしそれを味わう個人にとっては一般評価などただの参照事項に過ぎない。どれだけ心に食い込むか。それは聞く者が規定する条件が前提となり、その嗜好だけでなく、置かれた時機やタイミングも決定的に作用する。たとえば夢に見た恍惚に我を忘れた夜が明け、怠い空虚の朝に聞いた静謐流麗な旋律であったり、もはや断崖に追い詰められた絶望を振り払いさまよい酔いどれて耳にした暗く侘しい慰撫の歌声であったり。それは他者の評価などどうでもいい、その人には忘れられない一曲として深く刻印されるだろう。文学も変わらない。世間の評判や識者の批評などどうでもいいのだ。だから十代で握りしめた文学と三十代でかたわらに置いた文学や、そして五十代で目を見張った文学が、その人生に立ち現われるのだ。私の文学は私の心が選ぶのだ。

 だからなのだ。自由に手を伸ばし開けるように、ふんだんに作品は並んでいてほしい。たとえ書店からネットにその陳列が変わったとしても。文学はデータでも情報でもない。希少な魅力を宿すありとあらゆる作品群。
 それにしても書店に並ぶものの痛ましさ。他国を蔑み嘲笑うように反感をむき出しにして侮蔑する書籍群。あやまちを糊塗してまで自国を歪曲美化しては自己礼賛する気色の悪い病的なズリネタ本が店頭の中央を占めていることがある。そして店外へと押しやられた良質な文学は、人の目にも触れることなく、手に取られることすらない。その光景はテレビドラマの人気者など比べ物にならないほどに演技達者で魅力的な役者たちが都会の舞台にはゴロゴロいるのと同じなのだ。演技に優れた役者がテレビや映画に出演するわけでないように、良質な文学だから店頭に並ぶわけでもない。それが紛れもないそのままの有り様なのだ。

 そして気になるのは、感動という意味の奇妙な変質だ。「泣ける」などと称して、皮相な情動を機械的に刺激して、まるでポルノのようにただ消費される「感動」に席巻され、じわじわと深くあとになるほど心に深く沁み込んでくる感動がかき消されている。あっという間に心から跡かたなく消え果てる感動なら、やはりそれは読む者が支配して利用する感動だ。今の自分が許容する想定内のリクエストだ。むしろ感動と言うなら、読む者の想定キャパを超える衝撃。思いもよらず心の深奥が衝き動かされ、読む者が何がしか圧倒される心的体験。それをこそ感動と呼びたいのだ。
 たとえばギリシャ悲劇やシェイクスピア悲劇。さらに日本の能物語。その救いのない絶望物語がどうして何百何千年も大切に語り守られ継がれてきたか。それが人間と世界の実相と秘義に深く共振するのを人々が感じとったからではないか。
 そして現代であっても、そうした良質な文学が、実はあまたひそかに存在するのだ。

 だから、探して欲しい。見つけて欲しい。片隅に埋もれたままの良質な作品群。それは掛け値なしの宝なのだ。
 文学を読む。文学の復権。読むということの復権。そのためなのである。そのためにこそ、こうして書き綴り、そして発表する。あとは読者の裁断だ。書く者は甘んじて読む者の裁きを受ける。読んで欲しい。ただそれだけなのだ。

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「文芸エム」2020年7月創刊予定
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