前橋の萩原恭次郎

 今年の開催中止を受け、来年3月21日に次回前橋文学フリマが開催されるとメールが届いた。しかし残念ながら、来春にコロナ禍が収束している保証などない。むしろその後は「復旧」でなく「創出」を迫られる不可逆的な歴史的変容を私たちは今体験している。
 こうした参加型イベントは、本来参加者の自律的意志を喚起亢進させるものであって、依存させ「一人では何もできない」隷属する多数を産み出すものではないはずだ。だから、暗い森の藪に分け入って「代わりの道」をおのずから見出し産み出すのが、その恩恵にあずかった者の努めである。それは幻想のつながりや空虚な一体感に固執することでなく、あくまでも「自分にとって」の意味合いや呼びかけを自問し、その成就へ向かう「代わりの道」なのではないか。

 萩原恭次郎はその死の前年、金子光晴に「ほんとうの詩人の詩というものにじぶんはしばらく接しないでいた。君のようにものを把み上げてゆく人を詩人というのだと思います」と手紙を書いている。幹部が軒並み獄中で転向して共産党は瓦解し、思想統制のターゲットは社会主義からいよいよ自由主義思想へと移り、官憲による恣意的な弾圧が進んでいた。「非常時」だと喧伝され、国民の多数がその煽動に迎合し、肯んじない少数者に屈服を強いていた時代である。恭次郎が手紙に記した金子の詩集「鮫」への賛辞は、検閲に対する注意深い警戒感がにじんでいる。もとより無政府主義者として検挙歴のある恭次郎である。奇跡的に弾圧の統制をくぐり抜け、暗喩による痛烈な反戦詩群の発表にこぎつけた金子を、信書の不用意な文言によって窮地に追いやることを彼は怖れたのだろう。
 「ほんとうの詩人の詩」。そう恭次郎は記している。つまりこのところ目にしている詩は偽物の詩人による似非詩だったと言っているのである。これはただ他の詩人をくさしているわけではあるまい。もはや、あたりまえに詩を書き、発表する詩人が存在しえなくなっているという、心底からの嘆きであり悲痛な抗議にも見える。
 一世を風靡したプロレタリア文学は小林多喜二の虐殺が示すようにもはやその息の根を止められていた。恭次郎はアナキストだから彼らコミュニストとはとうに袂を分かっている。それでも彼らの凋落に、やがて文学界が雪崩うって体制護持、戦争協力に邁進するだろうことを予感していたのだろう。
 求められたのは「お国のため」の詩である。国難を挙国一致で迎え撃つため、たとえ詩人であろうとその統一からはみ出すことは許されない。むしろ大衆を鼓舞し、素朴な忠心を賛美する愛国の精神こそが詩の本義と定義し直されたのだ。たとえば、敵殲滅のための勇猛果敢な自己犠牲を謳った詩。それは国民の胸を打ち、感涙を呼び起こした。軍部が保護し称揚した「お国のため」の詩だ。もはや詩は手段であり道具であった。彼が嫌ったボル派が党の指導による革命のための詩を唱えたのと同様に、今や詩は軍部支配層の道具と成り下がろうとしている。そんなものは「詩」ではない。恭次郎はそう思っていたのではないか。
 ならば詩とはそもそもいかなる言葉なのだろう。西洋の或る詩聖は詩人を志す若者の迷いに手紙でこう答えた。本当に自分は「書かずにはおれない」のか、一人で静かに心で深く自問することだと。評価や見返りとはまったく無縁なところで、私は本当に書かずにはおれないのか。書くことを拒まれたら死ぬしかない、と感ぜられるか。迷うことはない。詩人となることをあきらめるにはただ、「書かなくても生きていける」と感じさえすればいい、と断じた。
 ここに揺るがない詩人のいのちがある。だから明らかに思える。「ほんとうの詩人の詩というものにじぶんはしばらく接しないでいた」。どんなにか辛酸であったろうか。時代に厳しく試されていた詩人の呻吟が聞こえるようだ。

 文学フリマが中止となった3月22日、前橋の町を歩いた。
 駅から恭次郎の詩碑に向かう道すがら、偶然見かけた「群馬県能発祥」の碑に惹かれ、寺院を覗いた。そこで親切な御住職に朔太郎にまつわる地元ならではのエピソードなどお聞きすることができた。様々資料の他、不案内な私のために、詳細な地図が掲載されている市内ガイドまでいただいた。
 萩原恭次郎詩碑は利根川にかかる大きな橋のたもとにたくましく建っていた。屹立する5本の石柱を串刺しするように黒い詩板が貫いている。見ると1959年の建立だ。漫然とした古臭い惰性を嫌った恭次郎らしい前衛性だ。あたりは小さな公園の風情で、ベンチに腰掛けしばらく利根川を眺めた。
 上石倉に住んだ恭次郎はしばしば利根川で泳ぐのを好んだらしい。訪れた友人が遊泳につき合わされ、彼の達者な泳ぎっぷりに舌を巻いたという記述が残っている。当時の川幅は現在とどうであろう。平気な顔で彼は対岸へ泳ぎ切ったとある。
 そして県庁の昭和庁舎に赴いた。昭和初年の建設であれば、きっと恭次郎も訪れたことがあるのではないかと思ったのだ。その美しい威容には息を呑んだ。石柱の白とレンガ色の清潔なコントラストが青空を背後になんと映えることか。その形状も繊細でシャープ。ところで前橋は空襲を受けていないのだろうか。当時のままの姿を残しているならなんと貴重なことか。鉄扉をくぐり、数知れない人々が訪れたことだろう。ここに生きた数多の魂が触れたその柱をまた私も触れることができるのだ。その指の熱や汗ばみは誰も成り代わることができないその人のたどり重ねたあらゆる歓喜や落胆、怠惰や情熱を宿しているはずだ。裏切りや絶望、成功や有頂天。それぞれの情動を抱えた、少年少女から翁や媼。ざらついた石柱に掌を当てると幾万の魂がはらわたに流れ込んでくるようだ。その強烈な烈風を内奥で受け止める。そして、きっと恭次郎もまた一度はここをくぐったであろうことを幻想するのである。
 目当ての書店はあまりに立派であった。恭次郎がその社員として勤務した煥乎堂である。彼が入社してから86年が経つというのにその名称も変わらずに同地で存在していること自体が驚きだ。信じられぬ思いで店内に入った。恭次郎を偲ぶ回想評論書を発行しているほどなのだから、もしや恭次郎関連書籍のコーナーがあるやもと期待したが、残念ながらまったくそんなことはなかった。しかしそれもやむない。こうして恭次郎の足跡に惹かれはるばる関西から訪ねてくる物好きなど滅多にいないに決まっている。わかってはいるが恭次郎の声望の乏しさが口惜しく思われるのである。3階は古書コーナーであった。高橋和巳の文芸読本を購入した。それから一階で同人誌、詩誌も購入したのだが、レジの男性が店長の名札をしているのが目に入った。ここに萩原恭次郎が勤務していたのですか。私は尋ねてみた。確信が持てなかったのだ。店長はそうですと首肯し、初代創業者が朔太郎ほか文人と親しく懇意であったのだという。恭次郎に関する資料的なものはないかと訊いてみたが、やはり首を振る。寂しく店を出た。
 前橋文学館はコロナ感染防止のために休館であった。実はその前日、前橋の地に降り立ったあとで私はそれを知った。しかし、それよりもなんと恭次郎の生誕120年記念展が昨秋から今年一月まで開催されていたというではないか。なんとも残念すぎる痛恨事だが、どれだけ悔いても詮方ない。だから散々そのことで気落ちしてしまったため、休館を知ってもそれほどがっかりはしなかった。入館できずとも訪れることにしていた。
 想像していたよりも文学館はずっと立派な建物で、朔太郎の青猫としっかり目が合うのが愉快であった。館は川をはさんで朔太郎記念館と向かい合っている。早い桜が咲き、広瀬川の水音が清冽だ。近くのコンビニで遅い昼食を買い込んで、遊歩道のベンチで平らげた。なんとも言えない心地よさであった。
 神保町で買い込んだ古書を投げ込んでいたコインロッカーから取り出して、ヤマト運輸まで運んだ。その帰り、改めて橋上から利根川を眺めた。なんとも強烈な水勢と水量だ。蛇行する水流の端には巨大なテトラポッドが積み重なっている。私は海辺でしかテトラポッドを知らない。たとえば豪雨の後など、それはきっと迫力ある奔流となるのではと想像した。川面に白く泡が波立っている。そしてその水の色だ。緑がかった青色だ。沖縄のようにエメラルドというにはあまりに彩度が低い。これは九州西岸、東シナ海の色だな。私は思っていた。

 それからしばらく関東にとどまり、約一週間ぶりに滋賀へ帰った。あっという間に世相はコロナ禍一色となっている。この騒動以前には当たり前に享受できていた行動の自由が阻まれ、予測を許さない巨大なカオスを眼前に共有している。病禍を人為による戦禍と同一視はできないにしても、未踏の暗雲に文学を携えて歩み入ることは幾多の先人も体験したことだ。出版の道を絶たれた恭次郎は自分で原紙を切りガリ板摺りの個人誌を発刊している。心を寄せたい。
 自宅からは琵琶湖とつながる瀬田川が見える。今、前橋を想うとき最初に心に浮かぶのは利根川であり、広瀬川だ。そしてその水音を思い出すのである。ぶつかりながら、曲がりくねっても突き進む、あの水流が思い出されるのである。

(追記)後日、文学館からのご厚意で萩原恭次郎生誕120年記念展のパンフレットを恵送いただいた。舞い上がるほど、うれしかった。