「チェーンギャング」1991
昨日の文学フリマ京都で信じられないような出会いがあった。私のブースの前で一人の男性が興味深げに私の作品を手に取っている。声をかけると、なんと30年前に私が使っていた筆名を口にされた。あまりの驚きに、すぐに返答できなかった。
実は30年前に一度だけ小説を自費出版したことがあった。その方は学生時代にそれを読み、とても衝撃を受けたのだとおっしゃる。本当に驚いた。小説は家裁調査官時代に書いたもので、裁判官の息子である少年が友愛博覧会という会場に火炎瓶を投げて放火事件を起こし、その逮捕から審判に至るまでの家裁や家庭の動き、明かされてゆく少年の動機心情を描いたものだ。気負った筆致もあって、私としては作品を気恥ずかしくも思っていた。その男性は、著名な担当教授から大学で指導を受けておられ、当時私の小説に刺激も受け調査官をめざし、そして現在は矯正関係施設の教官として勤務されているとのことだ。私も驚いたが、その方もたいへん驚かれていた。ブースに座っている私がその作者であったとは思いもしなかったらしい。私が書いた一編の小説が、遠く離れた場所で手にされた方の人生の進路にまで影響与え、それから30年を経てその作者と読者がようやく出会ったのだ。私も思わず立ち上がり、さまざま会話した。懐かしい名前がたくさん飛び交い、忘れていた過去が次々によみがえり興奮した。そして私が感嘆したのは、彼の口から「教科書頭」というワードが出たことだ。それは小説に一か所だけ登場する言葉だが、私が強い思いを込めて使用した言葉だ。まだナイーブな青年時代に、私の小説を全身で受け止めてくださったのだとよく伝わってきた。30年たっているのに、その言葉がよみがえり、さらりとその口からもれるほどなのだから。なんとも不思議で信じられないその方との出会いだった。
その小説を書いたのは家庭裁判所を辞める前年だ。当時文芸好きの友人らと発行していた「灯」という同人雑誌に「波さえ届かぬ岸辺なら」という題で発表した。ごく内輪のものだ。辞職した後、退職金の一部を使って「チェーンギャング」と改題して出版した。出版とは言っても本文表紙とも原稿をワープロ(パソコンではない)で印刷した言わば手製本だ。新聞に紹介記事が写真入りで掲載され、ラジオ番組や講演にも呼ばれた。しかし私はその後創作をすぐに辞めている。才能ないと断念したのだ。先立つ生活が大事だったからだ。それから16年後に、出版社からの依頼で「航路」を書くまで、一度も小説を書くことはなかった。自費出版という行為も恥ずかしいただの自己満足に思えて、言わば黒歴史として苦々しく過去の靄の中に消えていた。まさか知らぬところでそんなふうに作品が愛され、また何がしか読んだ人に力を与えていたことを知らされ、当惑すら覚えたのである。
葛藤だ。作品を多くの方に届けたいと願っている一方で、実はいつもそれを嘲笑う声が内側から聞こえてくる。お前の作品にそんな価値あるものか。作家気どりなんて笑わせる。自分を苛む自分の声と格闘する。昨日の文学フリマでは、昨年大阪の文学フリマで作品を購入くださった方も来られた。とても感動したのでほかの作品も読みたいと言ってくださった。そうした声を集めて自分を嘲笑し否定し去ろうとする内なる声と闘うのだ。
なんとか作品と読者を結ぶ回路を開きたい。魂を動かす物語。魂を呼び起こす文学。奮起したい。
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PS 捜したら当時の新聞の切り抜きがちゃんとありました。京都新聞は、労働組合の委員長だった関係で前から懇意だった記者の記事です。読売は軽く電話で質問するだけの取材で、記事内容もええかげんでした。言ってもいない私の言葉が書かれていました。これもまた体験小説などではなく、完全なフィクションです。この頃から実話扱いされていたのですね。