フェリーニ「道」と「よだかの星」
フェリーニの「道」を見た。何回目だろう。それでも見るたび新しく映りまた深く味わえるというのは大した作品だ。
今回気がついたのはこの作品もまた何が正しく、何が間違っているか、何が良いことであり、何が悪いことなのか、示してはいないということだ。つまり教化的でも啓蒙的でもない。その匂いがしない。
憐れで善良なジェルソミーナと許しがたい非道のザンパノ、そう言って間違いではないのだが、それは観た者の理解の仕方でしかない。作品はただそれだけを伝えているわけでないように思える。ザンパノがジェルソミーナを虐げながらも愛しく思っているいびつな心情を前から感じていたが、劇中の会話に驚かされた。去って行くサーカス団員たちの誘いを拒み獄中のザンパノを一人待つジェルソミーナと彼女に好意を抱き親身に接する曲芸師の会話だ。
自分は何も出来ない、何の価値もない、ただザンパノに怒鳴られ殴られる日々だ、生きていたくないと泣き出すジェルソミーナ。すると曲芸師はふと、それならなぜザンパノは彼女を捨てないのかと疑問に思うのだ。そして、もしかしたらザンパノは彼女を好きなのではないか、と思いつく。そんなばかな、と彼女はいぶかしがる。それからの曲芸師の言葉だ。
「あいつは犬だ」
そう言って彼は怪訝な顔をした彼女の顔覗き込んで語りかける。
「犬は何か言いたげな顔をしている時があるだろう」
彼女はうなずき、彼はこう言う。
「だけど、犬は吠えるしかできない」
なんという美しい言葉だろう。なんという優しい眼差しだろう。今までこのシーン特に感じることなくスルーしてしまっていた。
フェリーニの脚本の凄さだ。作家の力量はやはり人間観世界観の深さに規定される。そのことを思い知らされる。
言いたいことはあっても吠えるしかできない犬がザンパノなら、この世は違ったザンパノばかりではないか。泣くことしかできないザンパノ、笑うことしかできないザンパノ、偉そうに威張りちらすことしかできないザンパノ。
劇中セリフの中にはっきりと、ザンパノへの脚本家の慈しみがこぼれている。
純情無垢なジェルソミーナのベビーフェイス(善玉)ぶりを引き立てるために、彼女を隷属させ支配して搾取し暴行陵辱するヒール(悪玉)としてのザンパノと描くこともできたはずである。そうすればさらにジェルソミーナへの同情をかき立て、そして憎いザンパノの到底許しがたい所業を非難糾弾し、さらにそうしたザンパノ的なる者への社会的制裁を喚起させたい眼差しも可能であったはずだ。この映画は決してそうではない。いや、映画を見た観衆がどう受け止めてどのような感情を抱くかはそれぞれ観客の自由だ。ただこんなにも弁護しようのないザンパノを映画はただ「淡々と」描いていることなのだ。映画の作り手側に怒りや嘆き、絶望そして虚無もうかがわれないのである。
到底容認できない非道な所業を「淡々と」描いている。これはシェークスピア悲劇と似ている。善悪の裁断が相対性の偏狭に過ぎないことを、映画「道」の作家も知っていたのだ。そしてふっと思い出した。「よだかの星」である。
宮沢賢治の「よだかの星」は、学校教科書にも収録されている名作童話とされる。しかし、これを学校でどう教えているのだろう。よだかは虐げられ、悲嘆の淵まで追い詰められる。よだかはまったく孤独で、他の者はほぼすべてが彼を差別しからかい蔑みいじめる。よだかは一人で絶望して自死するように死んで星になる。あまりにも酷い。「悪気なく」「軽い気持ちで」人を死に追いやる様が明かされる。しかし、これは宮沢賢治の物語の共通トーンだが、非道な振る舞いを描くときすらそこに否定して糾弾する情念が窺われない。絶望や虚無でもない。言わば、淡々と「悪」が描かれる。ことさら偽悪ぶった虚無主義や或いは悪魔崇拝でなければ、悪に評価感情を抜きに描くことは困難である。これが写実主義、リアリズムの本義ではないか。そして優れたリアリズムはもう一度言うが、絶望や虚無とは無縁なのだ。裁きの卑小さを知悉しており、だからこそ決して語らないが、人間と世界をあまねく畏敬する慈しみを遥か深奥に湛えているのである。
「道」であれ「よだかの星」であれ、その作品がどのように評され解釈されるにしてもこれだけ多くの人の心を打ち、魂を揺さぶるのはそれだけ作品の深さを教えているのではないか。決して概念や常識に依ってする、教化でも啓蒙ではないことがよく理解できる。