世阿弥 能「砧(きぬた)」
NHK日本の芸能 能「砧」
捨て置かれた女の恨み物語である。京に訴訟のために上った夫から音信が絶えて三年たち、ようやく間もなく帰ると伝えられ、妻は中国故事になぞらえ夫に思い届けよと砧(きぬた)を打つ。砧とはアイロンのように洗った衣服を叩く木槌である。しかし、待ちわびる妻に夫の帰郷は延期になったと知らされる。落胆の果てに妻は病に伏し、結果死に至る。ここまでが前段だ。
ところで妻は夫や付き従った下女を恨みなじるが、夫らは妻をないがしろに遺棄したつもりはないようだ。ただあれこれ日々を忙殺されていたのだと語るが、妻はさぞ都は楽しいこと多かろうと嫌味を言う。物語に夫の不義を疑わせる箇所はないし、その台詞もごくあっさりとしており、特に夫の心情を深く伝えるものではない。物語はただただ妻の恨み言を念入りにこれでもかと語らせる。だから、妻を故郷に放置した夫の不誠実さよりも、夫への愛執に身を焦がす情念の凄まじさが際立つ筋立てである。何しろ絶望のあまり死んでしまうほどであるから、常軌を逸した念慮の凄惨な末路にぞっとさせられるというわけだ。
妻は夫を「恨めしい」と呪うように述べる。恨みというと憎しみと変わらぬ反感の固着した否定的感情とされることが多いが、「恨めしい」とはただ相手に対する単純な否定的感情だけではない。その始まりにおいて同等に激しく愛し恋焦がれた妄執があるがゆえに、願い叶わぬ相手に対して転じて憎悪を募らすのである。
日本の幽霊は「うらめしや」と口走るのが定番だが、それはただ反感から憎むのでなしに、愛着故の憎しみというアンビバレントに引き裂かれた複雑な無念こそが日本定番の「死んでも死に切れぬ」執着と言うことになるのではないか。なんだか相手もろとも自死するストーカをも想起させる。
そして能の後段であるが、妻の死を知り慌てて帰郷した夫は激しく後悔し、亡き妻の霊魂を呼び出す。ここから亡霊となった妻がよみがえり語り出すのだが、なんともこれが凄まじいのなんの、ド迫力である。
妻は地獄に落ちている。妻を地獄に落としたのは彼女の「邪淫の業」である。一方的で人並外れた恋慕のために彼女が始終心安らかでなかったその報いだという。地獄の描写が息を呑む。地獄で亡者を責める鬼(獄卒)が鞭を振り上げ休みなく彼女を打つ。そして現世でしたように砧を打てと命ぜられる。泣く泣く砧を打つと涙が火炎となって燃え上がり胸を咽ぶ。しかし叫べども声が出ず、ただただ鬼の責める叫び声が響くだけである。業火に灼ける妻は返す刀で夫をなじる。大嘘つきの鳥や獣よりも嘘つきだ。今世だけでなく生まれ変わっても永遠の仲だと私を頼らせておきながら、どうして遠く離れている私を思いやってもくれなかったのか、と言葉の限りで責めたてる。それを聞いている夫の心情は描かれていない。ただ、それから法華経の読誦で妻は成仏し、菩提へと転ずることが叶ったと語られて終幕となる。
ここで描かれる地獄はキリスト教で言われる罪ゆえの煉獄と異なることに注目したい。妻は夫への怨念のまま亡くなり地獄へ落ちる。その罪は妄執のため心安らかでなかったこととされる。悪いのは夫と責めたてた妻の方こそが間違っているから地獄に落ちたというわけではない。だから、ようやく亡霊となってでも夫と対面を果たし、心の内を思う存分夫にぶつけたのちに、経で救われるのである。分かってもらえなかったおのれの苦しみを夫に伝えることができて、ようやく妻の心に経を受け入れるかすかな平安が宿ったのだとも理解できる。善悪二分。正しいか、間違っているか。悪いのは夫か、妻か。そうした二見の裁断のために地獄があるのでなく、心乱れ執着の虜となって夫への恨みに凝り固まったその妻の心こそが地獄であったために引き寄せたのだと物語は語っているようでもある。興味深い。
それにしても、描かれる妻の情念の凄まじさ、また地獄のぞっとするリアルな情景など、本当に能は振り切っている。能面の静かさと極端に抑えた動作の中で絞り出される洗練極まる激烈な言葉の語りはまさに鬼気迫るほど美しい。能はいい。
今回見たものはパリ公演の映像だ。今日も、いい能を観た。
▲ 日本古典文学全集34口絵写真「砧」