第40回京都演劇フェスティバル 2019

昨日、京都演劇祭に出かけた。数年前にも一度参加したことがある。そのときは確か、府のコンクールで受賞したという高校演劇部の劇を観たのだ。それは水上勉原作の有名な戯曲で、とても見応えがあって驚いたのを覚えている。今回は、中島貞夫監督シナリオ塾で知り合った大津で朗読劇を主宰されている方からのお誘い。上演されたその劇は主演脚本ともその方がされていた。架空の幻想的な主題による物語。主人公の葛藤と成長が瑞々しく描かれ、郷愁と憧憬が舞台に溢れていた。その方を知っているだけに、そうした物語そのものを受け止めると同時に「創造すること、具現すること」にとても感じ入っていた。
自分自身で台本を書き、仲間とともにその物語を演じ、立派な照明、PAの舞台で多くの人々に観ていただく。それはなんという恍惚だろう。至福の時間であったろうと思う。

ずっと前、確か「しくじり先生」だったと思うが、映画監督の紀里谷和明が出演した。初監督作品「CASSHERN」が映画評論家たちから散々駄作とこき下ろされ、一時期日本の映画村から干されたのだという。
当時を振り返り彼は写真家映像作家として国際的な評価を得て天狗になっていたために、「どんな小さな映画作品であれ、それを作り上げるというのは大変なことだ、ということが当時は分かっていなかった」「映画製作者に対するリスペクトに欠け、傲慢だった」とまるで関係者に謝罪するように深々と頭を下げ率直に反省の弁を述べた。それは「作る人、生み出す人」への限りない畏敬であり、また共有する誇りのように見え、心打たれた。
しかし一方で、その番組に出演していた売れっ子映画評論家が彼の作品は「映画のセオリーから外れている」とまるで無知な素人の制作映画だと言わんばかりに酷評すると、返す刀で「そんなこと百も承知で敢えて作っているのだ」と猛然と怒りを込めて反論し、興行的には大成功の収益を上げ、海外では大変な評価を得たことを強調していた。見ていて、とても胸がスカッとした。明快だ。そのリスペクトは「作る人」に向けられているのだ。平然と作品を駄作と決めつけ、製作者よりも映画というものを知っているのだと言わんばかりで、ただ果実を甘受するだけの評論家にその敬愛が向かうことはないのだ。胸がすく思い。ここまではっきりと態度を表明できるのもすごいと思った。

作品を作り上げるということ、それは尊い。小説はただ一人による営みだ。深い孤独からしか書き上げられない。しかし舞台や映画は沢山の人々と作り上げるものだ。決定的に違う。うらやましく、憧れる。寒々しい冬の洞窟から、まるで春の祝宴を眺めるような想いだ。嫉妬する。