安田登「能 – 650年間続いた仕掛けとは」2017

ここにも記したがNHKで久しぶりに能を堪能し、そのまま余勢を駆って安田登の「能-650年続いた仕掛け-」を一気に読んだ。面白かった。と、さらに能に造詣の深い著名なある随筆家を特集するテレビ番組があり、録画しておいた。名前はよく見知ってはいたが、その著作はなんとなく敬遠し読んだことはなかった。出演は随筆家と交流のあった、歌人評論家に作家の三人。はじめから少し違和感があった。結局二十分もたたず、見るのをやめた。
実は若い頃から、伝統芸術とかいうものを私は嫌っていた。それを思い出した。こういう感じだ。そう、こういう感じがどうしても苦手だったのだ。なんというか、偉そう。下々の者には分からないと言いたげな、文化的上流階級の匂い。鼻持ちならない。簡単に言えば、エリート金持ちの占有領域だと決めつけている。
京都の能楽堂観世会館などに行くと、和服姿の婦人グループを多く見かける。全員がというわけではないが、いかにも家柄とか誇っていそうな気配だ。こちらはただ好きな能楽を楽しみたいだけで、観客同士特段関わりがあるわけではないのでスルーするだけだが、きっと会話する機会があれば私は同じ印象を抱くかもしれない。ここが京都のかなんところ。
「卒都婆小町」の痛快さはまず、格段に品格が勝るとされる高野山の修行僧を乞食の老婆(小町)が見事に論駁するところにある。ぐうの音も出ない僧侶は自身の上から目線を恥じ、この老婆は「ただの非人にはあらじ」と素性を知りたがるのだ。
また、世阿弥を将軍義満が寵愛厚遇することを周囲の高官たちが非難したことはよく知られている。その理由は、能楽師などという「乞食」を同席させるとは何事か、というものであった。
歌舞伎はもちろん、能楽にしろ、そうした舞楽芸事に携わる者は漁師や猟師と同様、士農工商から外れていた。特権的な上流の階級から愛好され保護されることはあっても、そもそもその担い手自身は決してハイソどころか真逆の立場だ。彼らの演じる文化を理解できるのは特権的な選民エリート階級だけだと称するなど甚だしく奇怪なブラックジョークだ。
げんなりする。昔の私と同じようにこうした理由で能をはなから敬遠しその魅力を知らずにいる人も多いのではないかと思う。
ところで、安田登の本に面白い指摘があった。能楽を保護したのは、義満、秀吉と言った将軍たちであり、武士階級にとっては基本的な嗜みであった。ところが、能楽で演じられる武士は、修羅物というそのカテゴリ名が示す通り、死して地獄の修羅道に落ちた姿ばかりである。栄光を賛美するのでなく、その拭いがたい罪業と悲惨な末路を描くのである。面白い。これを安田は、自動車メーカーがスポンサーとなっているテレビ番組で悲惨な自動車事故の物語ばかり流しているようなものと例える。うまい!武士がそもそもに持つ宿業を能によって救われようとしたのかもしれない。
文化は皆のものである。それをどのように評価しようとも自由であるが、評価以前にそれを楽しむ感覚はすべての人に自由に付与されている。それを以って憂さを晴らすもよし、手に汗握り夢中になるもよし、深い感動に震えるのもいいし、思わず懺悔に誘われ慟哭するもよし、自由である。見方感じ方を学ぶのは楽しいが、人の感じ方をたしなめたり蔑んだりするのは滑稽に過ぎない。
そんなことをまた思っていた。