Illumination「グリンチ」2018
心を入れ替えるべきなのは、孤独な男の方なのか。
あまり文句ばかり言いたくはない。どうしてそう否定的なのかといい加減敬遠されてしまいそうだ。
否定ではない。ふと思うことを綴ってみたいのだ。
映画「グリンチ」を観た。クリスマスの物語だ。こういうあらすじ。皆が心優しく明るい村がある。村はクリスマスの準備に大忙し。グリンチという男がいる。離れて一人山の洞窟に住んでいる。たまに村に降りてくるが、ひどく不機嫌で意地悪だ。「心が人の三倍小さい」らしい。グリンチはクリスマスが大嫌い。村の連中のはしゃぎっぷりに切れて、「クリスマスを盗む」ことを決意する。なぜそれほどクリスマスを憎むのか。彼は孤児院で育った。楽しいプレゼントもご馳走も暖かい家族も知らない。クリスマスほど悲しい日はなかった。だから大嫌いなのだと。そしてクリスマスの夜、彼は村のすべての家に忍び込み、プレゼントを盗み出す。そこで或る美しい心の少女と出会う。少女のことが忘られず、そして心が変化する。翌朝、プレゼントがすべて盗まれたにもかかわらず輪になって踊る村の光景に、自分の行為を後悔するグリンチ。そして自分の盗みを告白し、プレゼントの山を村に返す。洞窟に帰ったグリンチのもとに少女がやってきて、パーティに招待される。勇気を奮ってパーティに訪れた彼は歓待され、「心が三倍に大きく」なる。僕がいちばん嫌いだったのは「一人でいること」だったんだと、思わず彼はつぶやく。
とまあ、こういう話。いい話だ。
偏屈な嫌われ者が改心する話なら、「クリスマスキャロル」をもちろん思い出す。至高の文芸作だ。
クリスマスキャロルと比べるのは酷な話だが、様々気になって感動はできなかった。その違和感を一言で言えば、冒頭の言葉だ。反省して心入れ替えたなら、多数の中に入れてあげよう。もうお前は孤独じゃない。こちらの側だ。そういう風に感じてしまう。
グリンチは非道の振る舞い「犯罪」を犯してしまう。彼は村からの制裁を予測していない風だが、それはそもそも村が許しの村だったからか。そして、その許しのために彼が改心したのかもしれないが、彼が罰をまったく予想していないために、許しの福音の力も際立たない。クリスマスキャロルのスクルージは自分の非道と人々の愛情をつぶさに見せられ地獄に落ちる際まで体験し、慚愧に心震撼せしめられる。ところがこの世に戻ること叶い、その至福の絶頂で戸惑う人々への愛情を爆発させる。
グリンチの物語は孤独な人に声をかけよう、ということかもしれない。社会的孤立はあらゆる不幸の始まりでもある。しかしそれでもなお、その映画に私が違和感を抱いたのはなぜなのだろう。
ひとつには、孤独を悪としていること。明るくハッピーな狂騒はときに無神経で無思慮だ。だから、グリンチを放置してきた。彼は心に壁を作り、私たちの中に入ろうとはしない。そういうことだ。彼が私たちの中に入らない理由は、入ってこようとしない彼のせいなのである。どうして彼が入ってこないのか、明るくハッピーで、内省は「暗くて楽しくない」から苦手な彼らは考えることもない。
宮沢賢治はこう述べた。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
そこに不幸があれば、自分一人が心から幸福を謳歌することなどできない。
マルクスも目指す社会をこう書いた。
「他の人の幸福が、自分自身の幸福の条件である社会」
その村人は、傍らに苦しみ悲しみ絶望する人があっても、自分の幸福を心から謳歌し満喫する人々なのではないか。そういうメンタリティ。そういう幸福とは何か。幸福を奪い合う社会。幸福をめぐる勝者と敗者。
そしてグリンチが、自分と同じように孤独で心苦しんでいる人があっても、なんて心の狭い嫌な奴だと眉をひそめ、皆と明るく楽しくハッピーな多数の側にまわるなら、それは長続きするだろうか。
だから、冒頭の言葉に戻る。圧倒的多数の側も、一人に対して変わらねばならないこともあるのではないか。そう思うのだ。