「可哀想だが、仕方ない」について

気になるニュース記事を見た。それは、ある有名な元AV女優が妊娠したことについてだ。その女優は中国で大変な人気を博しており、中国で知られる日本人として五本の指に入るとまで言われている。その記事は、女優妊娠についての日中での反応の相違について報じていた。中国はもっぱら祝福一辺倒だが、日本では祝福半分、非難半分だという。非難の理由は、生まれる子供が可哀想。その子はきっといじめられるだろう。子供を産むのは如何なものか。それが非難の理由だ。
記事は日本と中国の国民性の違い、性に対する意識の違いを論じている。それはいい。気になるのは、「きっといじめられるから可哀想」という心情についてだ。
現実にその子がいじめられるかどうかについて予測することは現状の認識把握の問題だが、その現状に対する意識についてはどうだろう。元AV女優を母親に持つ子供がいじめられるのは、「仕方のない」「やむを得ない」ことと思っているのだろうか。そういうニュアンスを感じるのだが。
確かに、母親の職業によって子供がいじめられるという現実は容易に想像される。その現実に対する心情はどうか。「なんとしても必ず変革されねばならない」現実なのか、或いは「それもまたやむを得ない」現実と感じているか。後者はつまり、子供が可哀想と言いつつ、そのいじめもやむを得ないものとどこかで容認しているのではないか。
西アジアでは、婚姻外の男性と性交した娘や妻があれば、たとえ強制による被害者であれ家族の名誉のためにその女性を殺害するのもやむを得ないという社会意識が共有されている地域があると聞く。そんな馬鹿なと思うが、当地ではそれがコミュニティに共有され深く根ざしてしまった心情なのである。
可哀想と同情しつつもそう仕向けている社会意識を維持しようとする多数。その鉄壁の牙城には熾烈な血のにじむ抗争がときに必要となる。
いじめは犯罪である。その理由を問わず犯罪である。強要、暴行、傷害、恐喝は学校内であろうと、言葉だけであろうと、多数にただ雷同的に参画しただけと抗弁しようと、紛れも無い犯罪行為である。以前「いじめ、カッコ悪い」というコピーを見て絶句したことがある。殺人、カッコ悪い、と言うか。強姦、カッコ悪い、ならどうか。
かつて「痴漢は犯罪」というポスターを独自に掲示したのは、性暴力を許さない女たちの会というグループだ。痴漢を見とがめた女性が強姦被害に遭った事件を受けて、行政が掲示したポスターは「もし、めいわく行為の被害にあったら、ためらわずに大きな声を出してください。あなたの勇気ありがとう」というものだった。痴漢は「いたずら」に過ぎず、迷惑行為としか認識されていなかった。だからその抑止の努力は加害者にではなく被害者に求められた。そして今、「飲酒運転は犯罪です」という広告を目にする。しばらく前までは、「そこまで目くじら立てなくても」と受け止められていたからだ。
だから、ときに社会制度は多数の社会意識にただ追随するのでなく、一歩先に踏み込まねばならないこともある。法を定めるのは国会であり、決定するのは多数を占める議員だ。だから政治家の思想が問われ、選択する我々が問われる。
母が子を出産することにさえ、自己責任の蛮虐を振りかざす私たちの在りようをしかと見つめたい。

花茎

ここは戦場である
僕は戦場である
明日に昨日が落盤しても死ぬな
僕らは戦場である

夏が近い
夜は深い
口笛は届く
記憶で会える

戦場に一本の花茎、誰にも気づかれるな
戦場に一瞬の風神、僕は見よ
泥濘から腕が、すごい力だ
むしろ傷を

ここは戦場である
僕は戦場である
明日に昨日が崩落しても死ぬな
僕らは戦場である

原 浩一郎 (2002年頃 瀬田中講師時代)