滋賀県文学祭 | 滋賀県文芸出版賞を受賞。
昨日、滋賀県文学祭という催しに出席した。今年度の滋賀県文芸出版賞を受賞し、その授賞式があったからだ。参加は初めだったので、興味津々出掛けた。
それはひとつの風景であり光景であった。ところで私は湖東の景観をとても愛するが、受賞式の情景はそのまま湖東の静かに深い風物の響きをたたえていた。どこか懐かしく癒される落ち着きを味わう。しかしやはり私はいつでもどこでも余所の者だ。それは半ば自意識に所以するのだが、定住と漂泊が隣り合わせになるたとえば川を渡る一艘の中でともにする時間のようにそのかりそめをいつくしみたくなる。
改めて思った。書くとは否応なく自分の有り様をさらけ出してしまう。つまり、何に食いつき、何を回避し、何を拒むか。その訳は見えないが、ただ何ゆえか、そこを描き、ここを描かない。もちろん言葉を紡ぐ修練の技術はあるのだが、実はその「書くという態度」が映すその人の有り様を含めたものが「筆力」と呼ばれるのだと思う。
不幸を書けない人も多いし、あまりに残酷な情況を子細に描ける人など普通は滅多にないだろう。見せる必要はない。ただ、「書く力」のことだ。うわついてはしゃぐ無知を描けない人もいれば、狡猾で卑怯な人格を描けない人は多い。そして何より、至上に美しい人格を描き切ることができた人は文学史上にも極めて稀だ。
しかしこうした会話を書く者同士で語り合える機会はほとんどない。
できるだけ、そろそろ出てゆこうと思っている。