大竹しのぶ「後妻業の女」2016
「とても面白かった」と、女性から勧められた。その人から映画を勧められることなど滅多になかったので、それならと見てみることにした。
大竹しのぶが主演だ。つい先日、太田光との対談番組を見たばかり。二人の対話、とても面白かった。実は太田光、高校生のとき文化祭で自作台本の一人芝居を40分演じたこともあるほど、演劇少年。滝田修に宇野重吉の演劇論も当時読破していたし、シェークスピアも高校時に読んでいたという。彼にとって大竹しのぶの出現は大変な衝撃で、以来遥かな憧れの存在だったのだと言う。始め緊張していた彼がやがて例の毒舌が顔をのぞかせ、こんな面白いことを言っていた。「演劇というのは型の体得、それが演劇人にとっての修練だった。それなのに大竹しのぶが現れて『役になり切る』なんて、天才にしか出来ないことをやり始めたものだから、みんなその影響を受けて出来もしないのにその真似を始めたせいで、演劇界はめちゃめちゃになってしまった」なるほど、面白いことを言うなあと感心した。大竹しのぶはと言えば、へえ〜、そんなことないでしょ、とぼんやりスルーするだけだ。
面白い。演技はあくまで観る人に伝えるものなので、観る人にどう見えて伝わるかがすべてなので、よく言う役柄が本人に「憑依する」なんてどうでもいい。演者の自己満足でしかない。しかし別の言い方をすれば、本人が役になりきっていない芝居など見る側にすれば役柄よりも俳優自身が前景にでしゃばり過ぎて白けるとも言える。黒澤はどう見えるかにとことんこだわった演出ではないか。「隠し砦の三悪人」でお姫様が崖の上に立って涙流すシーン。確か助監督がその女優を罵倒して叱りつけて本気で泣かせ、今だとカメラを回したのではなかったか。たけしは台本なしの演出が多いと言うが、例えば指示は「遠くを見てじっとここに立っていてくれ」と言うだけで、なぜそこに立っているのか、悲しいのか懐かしいのか、思い出しているのか葛藤しているのか、演じている俳優にも分からないことが多いと言う。たけしに言わせれば、演技できない者に演技求めても仕方ないし、説明したところでどうせ見え方は「同じ」だし、使えなきゃ編集で使わなきゃいいだけ、だとか。一方、溝口健二はとことん役になり切るように要求するタイプだったと言うし、河瀬直美監督はなり切るどころが、まさにその配役の人物を「生きる」ことを要求する演出で、いつどこからカメラが回っているのかすらわからず、俳優として衝撃だったと永瀬が述べていた。俳優はそうした様々な演出法にもまれ、俳優として深めキャパを広げて行くのだろう。そしてもちろん、大竹しのぶは言うまでもなく、憑依型の代名詞のような俳優だ。太田光に「降りてくるのか」と問われたら、そうではなくて、「自分から行く」のだと言う。興味深い。エディットピアフを演じる姿など顔つきから声から全くの別人である。
そして映画「後妻業の女」。資産家で持病のある老人と結婚しては、直接間接に殺して遺産を手にする「後妻業」という犯罪を生業とする女の話である。ふてぶてしさを通り越して「罪悪感」というものが全く欠落した女だ。つまりは「悪女」である。ただ、中島みゆきが歌う「悪女」のように愛らしさなどカケラもないし、よくある「世界の悪女列伝」とかに描かれるような絢爛たる派手さとも無縁である。大竹しのぶ演じる女小夜子は、とにかく下品で大阪弁をまくし立て、いつも肩いからし背を丸め、ガニ股で歩き、口をへの字に曲げている。一言で言えば「汚い」。途中でわかった。これは「女ヤカラ」だ。
よく映画やドラマなどで「悪」を描くときには、いかにも凶悪な風采が好まれるし、近年は不気味にニタリと悪うサイコパスの凶悪犯という恥ずかしいほどのステレオタイプが描かれがちで失笑する。ヤカラと称される人々には「悪」という概念が欠落している。「世間がやってはいけないこととしている」「警察に捕まること」ではあっても、理由を問わず内心で禁止律として働く「悪」というものではない。禁止の根拠を内在化できていないので、そもそも悪を悪だと実は認識できていない。罪悪感など持ちようが無い。ところで、ここで言う「悪」とは社会規範としての「犯罪としての悪」程度の意味だ。ときに彼らは他の犯罪に怒り、興奮気味に非難することがある。しかし、自身においては、まったく信じられないほどに「抵抗なく」犯罪行為を行う。思いに任せ、一片のためらいなく他の肉体を毀損しときに殺害する。「そんなはずはない」「良心の呵責ない人間などない」残念ながら、それは幻想だ。長年の暮らしの中で、かつてはあったであろう「抵抗感」が表面上すっかり消え果てた人々がある。
ホリエモンが受刑中に記した日記がある。とても興味深い。ホリエモンから見て、受刑者たちは映画ドラマのような凶悪な風情の者は少なく、多くが一見普通の人と変わらない。話をしてみるとその男は強姦で刑を食らったのだという。昼間に自転車に乗った学校帰りの高校生を見かけ、わざと自動車ではね、田んぼ脇で犯行に及んだという。さらりとそう語るのに仰天したホリエモンは、思わず「よく勃つなあ」と驚く。妄想ではない。現実のそういう場面に興奮できる精神に驚いている。そこで、なぜそんなことしたのかと彼が尋ねると、返ってきたのは「ちょうどそのとき、暇だったから」という返答。ぎょっとして心底驚いたというくだりがある。何か、禁止された領域へとやむなく踏み越えるだけの特別な事情や理由があったと通常は想像するが、そうではない。単に「暇だったから」なのだ。乗り越えるためにエネルギーを必要とする境界、矩(のり)が、ないのである。もちろん言語化の能力や無自覚、無意識な深層心理を問題とすることは可能だが、少なくとも本人の自覚的意識においては犯罪と日常行為がなんら障害なく地続きだ。それこそが「悪」なのである。
それらは所謂多くの一般市民はほとんど知らない世界だ。ともに社会で生きていながら、知らずにいる。そして、理解が不能であると思う。それを大竹しのぶが演じているのだ。だから、つまりトヨエツがまさにヤカラなのである。大竹しのぶもトヨエツも「そういう世界」の人物である。彼らには世間の人が思うほどに、刑務所が「別世界」などではなく、まさに地続きである。当然だ。犯罪と地続きの日々を生きているから。
そうした「悪」はなかなか描かれない。理解が難しいし、多くの人には理解したくないという心理規制が必ず働く。だから、異常な人というレッテルを貼って安心したりする。
そう見れば、さすが大竹しのぶだ。楽しむように演じている。喜劇仕立てでもある。何度も繰り返す通り、喜劇とリアルと悲劇は一体である。だから実はこういう「悪」や「やから」も描き方ひとつである。かつて東映はいろいろなアングルで描こうとしたし、この映画もひとつのアングルだ。もっと違うアングルで描くことも可能だと思う。今までにないアングルで「悪」や「やから」を描きたい欲求もある。どんなに否認しようと彼らにも過去があり、そして人間であるからだ。生まれたからにはこの世で果たしたいこともあっただろうに。
ところで僕にこの映画を勧めた女性はそういう風にこの映画を観たとは思えない。それよりも「男をだまして手玉に取る痛快さ」に惹かれたのではないか。その痛快さはやはり女性ならではだ。グラマラスな若い美人に騙されるのではない。「くびれもない還暦のババア」に簡単に騙され骨抜きにされる男どもの姿が快感だったのではないか。きっとそうだ。分かる気がする。