冬の青空
まもなく、11月だ。もう12月が目の前である。
この歳になっても、12月と聞くだけで心が何かワクワクと弾むのを覚える。それは子供時分から、変わらない。
誕生日があるせいだろうか。クリスマスや冬休みが楽しみだったのだろうか。はっきりとその心浮き立った理由はわからない。そうしたイベントも確かに楽しみに期待はしただろう。しかし、ただそうした刺激的な興奮だけでなく、冬の季節の凍える寒さをもたいそう好んだ。
私は九州の鹿児島生まれだ。暑い。ただ誤解している人も多いが、その暑さは例えば盆地京都のうだるような蒸し暑さに比すれば、さほど変わらない。京都で暮らし始めた最初の夏には、あまりの暑さに鹿児島より暑いではないかとその不快な体感に絶句したのを思い出す。しかし、もう鹿児島を離れて長い。鹿児島の夏をしっかりと実感持って思い出すことができない。
そして鹿児島の冬である。鹿児島にも雪が降る。それを驚く人も少なくないが、雪は降るのである。ただ、厚く積もるほどではない。おおかたは地面で溶けるさわりとした牡丹雪だ。雪は何よりのセレモニーだ。豪雪はないから、災害となったり或いは交通など生活に混乱を引き起こすことも滅多にない。だから、ただ浪漫的な優しく美しい自然の贈り物なのである。
そして冬と聞いて私が想い浮かべるのは、広がる青空である。それは、鹿児島の冬の青空だ。秋の抜けるような一面の青でもない。もちろん焼けるような灼熱の夏の青空ともまったく違う。そして、何か落ち着かず浮き足立つような晴れがましい春の青空でもない。静かで深く沈黙する優しさのような冬の青空。仰ぎ見ると心が満たされた。私は冬の青空を愛したし、それは冬の青空が私をこの上なく愛してくれたからだ。どれほど慰撫し癒してくれたことだろう。冬の青空のおかげで生き延びることができた日々を想う。ことさらな励ましや許しなど重荷である。だから、そうした言葉はむしろ遠ざけたい。何も言わずに、ただ黙って広がってくれている冬の青空。まるで離れていた故郷に帰れるかのように、秋になれば冬の青空を請うた。
親しく心寄せる少女があった。思い出す。最近、○○君何かうれしそうだね。別の女生徒が私のことをそう述べると、その少女は私はその訳を知っていると言わんばかりにこう答えたという。きっと、もうすぐ冬が来るからだよ。その話を女生徒から聞き、私は少女をさらに深く心に感じていた。冬の青空のような少女だと、私は思っていた。
まもなくだ。