手錠
私は手錠をかけられたことがある。そう言うと、決まって学生時代ですかと尋ねられるのだが、違う。16歳のときだ。
やってきた署員たちに手錠を両手にかけられ、パトカーの助手席に座らされた。手錠をかける際警察官は、「悪いけど、規則だから」という趣旨のことを述べた。パトカーの前面にはさまざまな計器類や装置が一面に装着されており、すごいなと私はそれに見惚れていた。手錠は意外にも見た感じよりもしっかりと重みがあった。私は抵抗する気は全くなかったし、そもそもそのときも「警察に捕まった」という自覚も乏しかった。ごく自然に「保護」されたわけだから、警察がそれだけ手馴れていたということだ。その上、遠く九州の鹿児島から家出してひと月近くがたっていたから、逃れている身ではあったが犯罪を犯した訳ではなかったので、我ながらとても落ち着いていた。実は家出中警察から不審尋問を受けたことがあり、そのときは動転し慌てふためいて嘘をついて涙ながら懸命に弁明していたから、このとき腹をくくってむしろ冷静でいる自分を自分で意外に思っていた。警察署では二人の刑事から取り調べを受けた。その最中に、どうも何か犯罪をしたに違いないと疑われているのだとようやく気がついた。しかし何もやっていないのだからどうしようもない。二人の刑事は一方が高圧的で、一方が優しかった。怒鳴るようになじられたあとで、かばうような態度を取られると、思わずホロリとした。いい人だなと思ってしまう。これはテレビで見たことがある。きっとそういう役割分担で犯人を落とす常套手段なんだろうなと思ったのを覚えている。そして、色々と関係先に電話をして確認したようで、私が嘘をついていない、何も犯罪行為をしていないらしいことがわかってきた。すると、いかにもあてが外れたと言わんばかりに何かがっくりと拍子抜けしたみたいな態度を露骨に見せて、八つ当たりみたいに人騒がせな!と責められた。当時はそこまで思わなかったが、あとで思い出すと何か具体的な捜査している事件があり、私が犯人に違いないと踏んだのではないか。そう思う。でなければ、逮捕状もないのに手錠をかけて身柄拘束するというのは考えられない。あるいは、それくらいに規律が杜撰だったのかもしれない。その夜は留置所に寝た。手足を伸ばして横になって眠れるなど久しぶりだったので、泥のように爆睡した。翌朝は爽快だった。小窓から膳を受け取り、梅干し麦ご飯と味噌汁と漬物の朝飯を檻の中で食べた。まともな食事も本当に久しぶりで、涙出るほど美味しく感じた。
先日この体験を話したところ、「言わば、冤罪体験ですよね」と言われ驚いた。あれから40年近く経過しているのに、一度も自分でそう思ったことがなかったので面食らったのだ。そういえば、確かに故なく逮捕状もなく身柄拘束されたのだから冤罪も甚だしいとは言える。言われてみると。しかし、法的には犯罪でないにせよ「家出」して姿をくらましたのだから、後ろめたい身の上だ。何も抗弁できないと思っていた。
家出中は散々な生活だったが、実は心は解放されて鹿児島にいた頃よりも幸せだった。一言では言えない。辛かったけれど楽しかった。惨めだったけれど、自由だった。そう言う風に、人間とこの世における出来事は「一言では言えない」ものだとそれを深く学んだ気がする。一言では言えないのだ。
一連の警察での体験で警察官に反発反感を覚えた記憶はない。執務室で全裸にされて身体を点検されたときは恥ずかしさで消え入りたいと思ったが、特に脅され不安や脅威で緊張させられたという意識はなかった。しかし、鹿児島に戻って以来警察官の姿をみるとまるで条件反射のように緊張し身構えてしまう自分がいた。敵だ!と自分を守る感じなのだ。それはずっと長く消えなかった。きっと、警察での体験が自分で自覚して意識している以上に精神的に深い痕跡を残したということだろう。無意識に抑圧しているのだ。
そして人生の妙である。10年後、私は少年に手錠をかける側となる。志望したその仕事の態様はさまざま面接による調査報告であったが、鑑別所に少年を押送する際に同行する業務があった。その際に少年の両手首に手錠をかけるのであるが、自身の体験を思い出さないわけがない。そのたび、さまざま想いが巡った。
そしてそれからもずいぶん時間が流れ、社会はすっかり様変わりし、私も老いた。十代に語りかけるにはあまりに隔たっている。私の体験も掘り下げねばそのままではただの昔話でしかない。すっかり行儀がよくなった今の少年たちとどこかで何かを共有できるのか、何より黙ってしばらくは耳を澄ましていたいと思う。