京都、秋
まもなく11月となる。紅葉のシーズンだ。
九州にいる頃は、秋という季節をしみじみと味わったことはなかったのかもしれない。鹿児島の森の赤い葉や黄色の枯葉を思い出せない。それはもちろん当時の私の精神性の問題だ。それよりも台風の記憶の方が鮮烈で今なお色褪せない。
京都に来てその紅葉の見事さをたびたび耳にもしてきた。観光で赴くという機会はとても少なかったけれども、高山寺や鞍馬、東福寺など、その季節に訪れた記憶はある。しかし、それ以上に今強くその秋の光景を空気感とともに思い出せるのは、真如堂だ。
観光ではない。新聞配達で毎日見た記憶だ。吉田山から始まり錦林車庫まで配達するそのルートのちょうど中間地点が真如堂だった。自転車にうず高く新聞を積み上げて走るのだが、一度にすべてを積載できない。半分を積んで出発する。そしてそれがちょうどなくなる地点に残りの半分が置いてあり、自転車に積み込んでまた走り出すのだ。印象はとても強く心に刻み込まれているが、実際にはたったの半年間だ。大学一回生の8月から翌年の3月まで。だから、その秋の体験は一度きりということになる。それでも、あの風情は心深くに沁みた。剥げ落ちて中の編み木がのぞいている石壁。道路一面の乾いた黄色の落ち葉。頭上で大きく揺れてざわついている紅葉。静謐な未明の空気。感動していた。
京都は嫌いな部分もある。その思い上がりや他への蔑視は無自覚である分だけ罪深い。そう言った究極の鼻持ちならなさを前にすると、かつて京都を焼き払おうと激情に駆られたよそ者たちが荒ぶる情景もありありと想像できる気もする。それでもだ。京都には替えられない京都らしさに心動かされずにはおれない。法然院、奥貴船。
観光客も京都人もいない京都が語る言葉にならない言葉に耳をすますのは楽しい。あの真如堂の枯葉を踏んで自転車をふらふらと漕ぎ出すしゃりしゃりとした音。思い出すのである。