足立紳-「14の夜」2016
長久允-「そうして私たちはプールに金魚を」2016
「14の夜」と「そうして私たちはプールに金魚を」。いずれも主人公たちは中学三年生だ。「14-」が、何者でもないさえない男子四人のグループ。「そうして-」も同じくらいどこにでもいる女子四人だ。「14-」は1987年がその舞台で、「そうして-」は2012年だ。時代は変わっても、コピーしたかのように、そこに息づく苛立ちや倦怠や諦めやもがきが同一だ。でもそれはおかしくないか。男と女の14歳が同一だとは思えない。1987の男子と2012の女子が重なるということだろうか。
「14の夜」というタイトルはもちろん尾崎豊の「15の夜」のパクリだ。尾崎豊は悩み傷つき歌う超絶イケメンの絶対カリスマだが、ジャージズボンでうろうろして中2病よろしく妄想に身を焦がすのが普通の14歳だ。尾崎は盗んだバイクで走り出したが、「14-」は自分のツインライトの自転車で家を出る。それは、爆乳AV女優のサイン会がレンタルビデオ屋であり、深夜12時を過ぎればサインだけでなく「おっぱいを吸わせてくれる」らしいという噂の夜だ。しかし、馬鹿なスケベ妄想に駆られて夜の学校に集まることが、校舎のガラス割るよりも、革命的跳躍であったりする。まだ、インタネットもスマホどころか携帯もない。レンタルビデオ屋はTSUTAYAでもGEOでもなく、まだ個人商店だった頃の話。面白かった。自分の思春期が恥ずかしくない奴なんて信じられないな。
「そうして-」は25分の短編映画だ。起承転結あるわけでない。コラージュのように切り取られ断片が貼り付けられる。日常のドキュメンタリ風でありつつ、ひどく凝った組み立ての美しい構成。これは自問しつつ独り言ちる脱力キャラの魅力も大きい。4人の少女がカラオケ屋で「17歳」を大声でがなりながらソファの上をずっと飛び跳ねている。目もくらむほど鮮烈で瑞々しい。しかし、だけではない。ずるい。「そこそこ幸せ」。保身のためのつるみや自分をかばうための口先だけの言葉を自分で知っている。だから大声でがなる。他はこのシーンの効果音だ。言葉にならないものがここにあふれている。よかった。監督はCM作家らしい。同じくCM作家だった監督の「鮫肌男と尻軽女」思い出した。
乱暴に言い切れば思春期葛藤ということになるのだが、正面から描くことはもう難しいのだろうか。いや、こちらの方が「正面から」描いたということになるのか。あらわれは異なってもそのくすぶる摩擦の焦げ臭さは不変だ。