目的としての文学
夏に取材を受けたとき、読者にとっての作品の意味について問われた。私が書いた作品を読むことにどのような意義があるのか、というのだ。また、作品で何を伝えたいかとさかんに尋ねられた。なんとかよい新聞記事にしようと苦心されたわけだ。しかし、だ。それは尋ねられても困る、酷な問いだ。その場ではなんとか答えたが、あとで尋常でない違和感に襲われた。文学作品の社会的意義、など作者自身がどう答えたらいい。「そんなもんないよ」と本人は答えるほかない。
最終的に死ぬまでに、描き上げたい主題はある。しかしそれは絶対に口にしない。今はとうてい書く力がないからだ。つまり、地獄を書けないのに天国なんて書けるわけがない、悪魔が書けないのに天使を書けるはずがない、からだ。今は口が裂けても言えない。
だから、自作の意義をとうとうと語るほど恥知らずじゃない。何かを伝えるために書いているわけではない。まして何かを教えるなんて、ありえない。描きたいことはある。しかし、それをどう受け止められようとそれは僕の考慮外だ。分かってもらおうとあれこれ思いはしないが、ただもっとどうにか、うまくきちんと描き上げたいだけだ。
あとで記者に訂正した。私は何かを伝えるとか、何かのためには書いていない。何か目的があって、そのための手段として小説を書いているわけではない。書くことが目的であって、手段ではない。そう伝えた。文学はそれ自体が目的であって、文学は手段ではない。それは言ってしまえば、文学への冒涜であり、手段として扱うかぎり文学のいのちには迫れない。
もし何か目的を抱いたならば、小説ではなく、他の手段を選択する。そう思う。これが、文学との契約であり誓約だ。