筆名
原浩一郎というのはペンネームだ。三年前、応募した小説が賞を取り掲載されることになり、慌てて新たに名を決めてその名を編集長にお願いした。名前に意味はない。適当だ。以前まだ30代のとき、新聞に記事が掲載され、ラジオ番組にも呼ばれ、青年会議所で講演もしたが、そのときはまた別の名前だった。
最初にペンネームというものを使ったのは16歳のときだ。中学のとき好きだった子の名前の一部を拝借した。今では「きっしょ!」とドン引きされそうだが、当時はよくあることだった。その同人誌は大学生協で印刷され販売されたのではなかったか。それから、いろいろな筆名を使った。本名では格好悪いと思ったし、どこかで違う自分になりたいという憧れ、願望があったような気もする。
しかし、「書く」という行為は怖ろしい。とりたてて自分について書くのではなくても、書けば「書き手」をうっすらと浮かび上がらせる。ある主張をすれば、そういう価値観や思想の持ち主と類推されるし、ある感慨を書くとその人格像を当たり前のように想像される。賞賛されれば気持ちもいいし、好かれたら舞い上がり、応えたくもなる。そして気がつくと、実際の自分自身と「書き手」としての自分に微妙な乖離が生じてくる。つまり、「書き手」の自分を自分自身だと錯覚するのだ。僕がようやくそれに気づいたのは月刊でミニコミ誌を編集していたときだ。そのときはっきりと、「書き手」の自分は、飯食い屁をして昼寝する自分とは「別人格」と切り離さねばならないと思い知った。「書き手」を自分自身と錯覚すると究極精神は破綻しかねない。このあたりうまく書けないが、そうなのだ。書いたことでどのように評価されようと賞賛されようと、僕の人格や存在が評価されたわけではない。それははっきりと思い知っている。別人格、なのだ。だから、筆名はなくてはならないのだ。
僕はフェイスブックをずっと前に、辞めた。本名で言葉を晒すことに、同様の違和感を覚えたからだ。書けば、どんな善人の振りもできる。ばれずに。それは、自我の分裂への道だ。本名では書けなくなる。だから、筆名なのだ。
原浩一郎というペンネーム、気に入ってる。もう、これは、変えないつもりだ。