湧き水
ようやく小説128枚書き終えた。あと一週間で推敲。いつものとおり、ぎりぎり瀬戸際執筆。9月はこれ一本だけだ。8月は、90枚の脚本と50枚の小説を書き上げ、50枚の脚本初稿を上げた。月末頃はかなりおかしな精神になっていた。ある種のトランス状態。病みつきになるのだけれど。今月も上旬は全体が構成できず煩悶したが、中旬からは入り込めた。
前は、ひと月が情報と感覚の刺激蒐集期間で、次のひと月に構想を固め、そしていよいよ怒涛の執筆にひと月かける、という三か月中編一本というノルマを自分に課していた。これに推敲のひと月を足したら理想的なペースだと思うが、とうにそんなスケジューリングは崩壊している。
残り時間が限られている年齢としては、もっともっと書き上げたくて歯がゆい。書いて書いて書きまくりたいのだが、生み出し書き上げるのが遅い。才能の無さを恨む。
その才能は、湧いてくる、降りてくる、思いつく才能だ。ただ時間をかける「努力」ではなんの役にも立たない。
湧き水から川が生まれるように、雨乞いや雪乞いをするのだ。雨や雪が、現実生活のあらゆる出来事であり取材であり他のさまざまな分野の作品に触れることに当たる。上に書いた刺激蒐集だ。その雨雪が地中をくぐり岩盤を渡り、湧き水として出てくる。そこが才能だ。湧き水がプロットであり企画であり構想だ。そしていよいよ川の流れが本編の執筆だ。
湧き水が一滴も現れず、雨雪をそのまま使用するのが剽窃であり、プライバシーや情報の守秘義務で問題になり、そもそも作品として薄っぺらなものになる。盗作への道だ。才能の枯渇欠乏の苦しみからそこへ走らざる得なくくなる作家の心情も想像できる。だからこそ、雨雪を湧き水とする心的技能を深める努力を一心に務めるほかない。それが創作者の営みということになるのだと思う。
今回書いた物語のBGM